ポティトゥスと十人委員会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 23:21 UTC 版)
「ルキウス・ウァレリウス・ポティトゥス (紀元前449年の執政官)」の記事における「ポティトゥスと十人委員会」の解説
ルキウス・ウァレリウスもマルクス・ホラティウスもパトリキであったが、強権的な第二次十人委員会がプレブス(平民)を虐待すると、プレブス側に立ってこれに対抗した。第二次プレブスの離反(en)が生じると、プレブスからの信頼を得ていたこともあり、両人は交渉役に選ばれた。プレブスの要求が満たされ、離反が終結すると、両名は執政官に選ばれた。十人委員会の委員の内、アッピウス・クラウディウス・クラッスス・インレギッレンシス・サビヌスとスプリウス・オッピウス・コルニケンは収監中に自殺、他の8人はローマを追放された。 両人はウァレリウス=ホラティウス法(en)を成立させた。この法律は3条から構成され、第1条はプレブス民会での決議であっても、トリブスごとの投票を経ていれば、パトリキにも適応されるというものであった。第2条は十人委員会が中断させていた上告権を回復させるものであり、上告権の及ばない公職の新設を禁じた。第3条は護民官に対する不可侵を再確認したものであった。 現代の歴史学者の中には、第二次十人委員会をフィクションと考え、従って第一次十人委員会と合わせて疑問を呈している者もおり、第二次プレブスの離反とウァレリウス=ホラティウス法の歴史的正確性にも疑問を投げかけている。他方でモムゼンとコーネルは、少なくとも話の核心は歴史的事実と考えている。ウァレリウス=ホラティウス法にも疑問が呈されている。上告権に関しては、ウァレリウス氏族の執政官が同様な法律を制定したという説がある(紀元前509年のプブリウス・ウァレリウス・プブリコラと紀元前300年のマルクス・ウァレリウス・コルウス)が、この最後のものだけが事実と考える歴史家もいる。プレブス民会に関しても、紀元前339年の独裁官クィントゥス・プブリリウス・ピロが定めたプブリリウス法と、紀元前287年のホルテンシウス法が同様の内容を含んでいる。一部の歴史家は、この内容はホルテンシウス法で初めて定められたと考えている。但し、これらの法は歴史的事実と考える歴史家もいる。
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