第一次合戦とは? わかりやすく解説

第一次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 19:31 UTC 版)

バリ島沖海戦」の記事における「第一次合戦」の解説

2月19日月齢4、曇天暗夜視界8km)23時50分、笹子丸の舟艇揚収は終わり、3隻(大潮朝潮笹子丸)はバリ島サヌール泊地出港しようとしていた。23時53分、朝潮南方約6kmに接近してくる『ジャバ巡洋艦2隻』を発見した。この時、泊地突入してきたのは軽巡2隻(デロイテルジャバ)、駆逐艦3隻(蘭国ピートハイン〉、米国ジョン・D・フォードポープ〉)の計5隻である。軽巡2隻と駆逐艦3隻の間は距離があった。2月20日0000頃、軽巡2隻(デロイテルジャバ)が朝潮対し砲撃および照明弾発射朝潮応戦して距離2000m同航戦となったが、出航直後速度上がらず砲戦開始まもなく敵艦見失った被害探照灯に弾片があたったのみで、朝潮は『我敵「ジャバ」型ト交戦中「ロンボック海峡」』と報告した巡洋艦2隻(デロイテルジャバ)は再攻撃することなく泊地北方去った先に出航していた大潮第8駆逐隊司令駆逐艦)は朝潮前方2-3kmにおり、砲戦見て航進開始した接敵しなかった。すると南の煙幕切れ目駆逐艦1隻(ピートハイン)の北上確認し南へ向かった朝潮南へ向かっており、20日0011に同航する駆逐艦1隻(ピートハイン)を発見し1500m射撃開始、距離1000mで魚雷発射し0016に撃沈報告した。しかし、ピートハイン大破しながらも沈んでおらず、低速動いていた。つづいて8駆1小隊大潮朝潮)はそれぞれ南下右舷2000mに同航する駆逐艦2隻(フォードポープ)を発見して砲撃開始するが、米駆逐艦2隻は煙幕展開して逃走した。2隻(大潮朝潮)は敵艦北方逃げた判断して反転北上、0042に合同し単縦陣形成した20日0045、8駆1小隊大潮朝潮)は左前方3500mに駆逐艦2隻(実はピートハイン1隻)を発見して砲撃開始、0047に1隻火災発生沈没、もう1隻にも火災発生させたと報告ピートハイン炎上しながらも反撃行ったが、最終的に撃沈された。2隻(大潮朝潮)は砲撃続けながら北上南下繰り返し、1時10分に敵艦姿を消したのを確認した。0140、阿部司令は『敵「ジャバ」型2隻ハ「ロンボック」海峡北方遁走セリ 後ニ残レル駆逐艦三隻ハ二隻撃沈一隻大破被害ナシ一四〇』と報告するピートハイン1隻撃沈対し駆逐艦2隻撃沈、1隻大破』と誤認した原因は、海面広がった燃料火焔を、炎上敵艦錯覚した為と思われる。第一次合戦が終了した後、8駆1小隊大潮朝潮)は泊地哨戒した。 支援隊(第一根拠地隊司令官久保少将)が座乗する軽巡長良2月19日午前8時にマカッサル出発、第21駆逐隊若葉子日初霜)と合同後夕刻にはロンボック海峡の北80浬にいた。第8駆逐隊第1小隊からの戦闘報告受けて南下開始するが、同時にマカッサル帰投中の第8駆逐隊第2小隊満潮荒潮)に同第1小隊大潮朝潮)の支援を、相模丸は単艦でのマカッサル回航命じた。8駆2小隊荒潮満潮)は反転して第1小隊との合流急いだ

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第一次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 08:51 UTC 版)

バタビア沖海戦」の記事における「第一次合戦」の解説

先行した2隻の連合軍巡洋艦隊(パースヒューストン)は、途中ジャワ島バンタム湾(バビ島)付近に差し掛かったとき、前方日本軍神州丸以下の輸送船団発見した付近に護衛艦艇を発見できなかったことから、両艦はこれを攻撃すべくバビ島の東側まわってパース-ヒューストン単縦陣突撃開始した。しかし、既に両艦は3月1日0009(0時9分、以下時間数字表記のみ)、バビ西方哨戒行っていた駆逐艦吹雪(第11駆逐隊)に発見されていた。吹雪は2隻の後方8,000mを追尾敵艦行動逐一護衛司令部報告していた。一方、セントニコラス岬沖合い哨戒中だった原司令官座乗軽巡名取、第11駆逐隊初雪白雪)も0018、東方2万mに敵艦発見する。更に0029、パンジャン島沖合い哨戒中の駆逐艦春風(第5駆逐隊)も距離8,000mで敵艦発見通報する。しかしこの時点においても連合軍の2艦は未だに日本軍護衛部隊を発見しておらず、突撃続けていた。 原司令官一刻猶予も無いと判断第三護衛隊全艦に対して集結命令を出すと、北方沖合哨戒中だった西部支援隊(第七戦隊第2小隊三隈最上〉、第19駆逐隊敷波〉)に対して集合するよう命じた続いて名取と第11駆逐隊に「魚雷用意」を下令、また第5駆逐隊春風旗風朝風)に集結命じた。原司令官迎撃準備整え一方、敵が味方重巡出現により形勢不利と考えて遁走することも警戒していた。従って戦闘軽巡名取駆逐隊敵艦を広い海面誘い出し味方船団からも引き離した上で一挙に戦力集中して撃滅する、という方針立てた。 しかし、そうこうしているうちにパースヒューストン日本軍輸送船団接近、0037まずパース照明弾発射した。これに続いてヒューストン輸送船に対して主砲砲撃始めたが、遠距離砲戦のため命中弾はなかった。一方連合軍はようやく後方に艦がいることに気づいた。パース発光信号誰何行った直後の0044、後方追尾していた駆逐艦吹雪が距離2,500mヒューストンに対して魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲16発発射した(吹雪魚雷命中誤認)。これに対して2隻(パースヒューストン)は面舵急旋回行い魚雷回避しつつ、照射砲撃反撃したが、吹雪煙幕を展張して避退した。また船団対する2隻(パースヒューストン)の砲撃開始と『敵機吊光投弾投下ス』を見た春風(第5駆逐隊司令駆逐艦)が連合軍2隻(パースヒューストン)と船団の間に割って入り、0037から0057にかけて煙幕を展張した。この煙幕当時まだレーダー装備していなかった連合軍艦船に対して極めて有効に働き、これによって連合軍の両艦は船団砲撃出来なくなった。 原司令官敵艦味方船団への砲撃開始確認した直後の0045、これを救援すべく麾下の第5駆逐隊と第11駆逐隊に対して駆逐隊突撃せよ」と下令した。しかし船団傍にいた第5駆逐隊旗風敵艦との距離が3,500mまで近接しており、0052照射砲撃開始した12センチ砲4門では巡洋艦2隻の相手はならず反撃受けて避退、一旦集結地点向かい北上した。第5駆逐隊0102、セントニコラス沖北方10km海上合流する単縦陣となり、突撃開始した

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第一次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 14:22 UTC 版)

小豆坂の戦い」の記事における「第一次合戦」の解説

織田信秀西三河平野部への進出対し松平氏後援しつつ東三河から西三河へと勢力伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏勢力駆逐すべく、天文11年1542年8月一説12月)、大兵率いて生田原に軍を進めた一方織田信秀もこれに対して安祥城発し矢作川渡って対岸の上和田布陣同月10日9月19日)、両軍岡崎城東南小豆坂において激突した。 この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士奮戦によって織田軍の勝利終わったとされるまた、第一次合戦の今川大将の「いはら」は庵原であり、太原雪斎のことである。 しかしながら、この第一次合戦については虚構であるという説もある。それは今川氏東三河進出天文12年1543年以降のことであることによるまた、当時今川氏本拠地である駿河国東部でも北条氏衝突繰り返していたこと(河東一乱)にも留意する必要がある

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第一次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/28 09:56 UTC 版)

薩埵峠の戦い (戦国時代)」の記事における「第一次合戦」の解説

永禄11年12月12日1568年12月30日)から翌日にかけて行われた戦いを「第一次合戦」と称する桶狭間の戦い今川義元織田信長討たれた後、今川氏真家督継承したが、長年今川氏領国支配から三河松平元康徳川家康)が離反した。この状況見た甲斐武田信玄は、長年維持してきた甲相駿三国同盟破棄し今川領である駿河併合して海へ出口」を確保する方針転換徳川家康秘かに約束を結び駿河遠江両国境界となっていた大井川を境として武田徳川両氏今川領を分割することとした。 永禄11年12月6日武田信玄甲府出発し6日後には駿河国庵原郡内房現在の静岡県富士宮市)にまで達した。この知らせ驚いた今川氏真直ち庵原忠胤1万5千の兵を率いて薩埵峠で迎え討つように命じ、自らも清見寺に陣を構えた。更に自らの義父でもある相模北条氏康にも使者発し直ち出陣し信玄背後を突くように要請した。氏真は武田軍今川氏本拠地である駿府攻めるには薩埵峠を経由するほかなく、ここを固めて迎撃ていれば必ず北条氏援軍挟みうちにできると読んでいたのである12日より峠の東側戦い始まり今川軍はよく峠を守った。しかし武田方、或いは徳川方重臣級にも内通呼びかけており、朝比奈氏葛山氏など21名が秘かに武田方に内通する姿勢をみせた(『松平記』など)。13日には身の危険感じた今川氏真清見寺脱出して駿府今川館逃れ駿府北西にある詰城賤機山城籠城ようとした。だが、氏真の撤退最前線に伝わると総崩れ起こし、これを追いかける形で武田軍は薩埵峠を突破その日のうちに駿府突入した

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第一次合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/01 02:06 UTC 版)

川中島の戦い」の記事における「第一次合戦」の解説

川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年1553年)に行われ布施の戦いあるいは更科八幡戦いとも言う。長尾景虎上杉謙信)が北信濃国人衆支援して初め武田晴信武田信玄)と戦った天文22年1553年4月、晴信は北信濃出兵して、小笠原氏残党村上氏諸城攻略支えきれなくなった村上義清は、葛尾城捨てて越後国逃れ長尾氏縁戚につながる高梨氏通して上杉景虎支援願った5月村上義清北信濃国人衆景虎からの支援の5000率いて反攻し、八幡の戦い(現・千曲市八幡地区武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清葛尾城奪回成功する7月武田氏軍は再び北信濃侵攻し村上氏方の諸城落として村上義清立て籠もる塩田城攻めた8月村上義清は城を捨てて越後国逃れる9月1日景虎は自ら兵を率いて北信濃出陣布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍先鋒破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし3日には青柳城攻めた武田氏軍は、今福石見守守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路断とうしたため景虎八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦避けたため、景虎一定の戦果挙げたとして9月20日越後国引き揚げた。晴信は10月17日本拠地である甲斐国甲府帰還した。 この戦い川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地大半をこの時期まで反武田方の諸豪族掌握していたことが判る長尾氏にとって、村上氏旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁崩れた事により北信濃国人衆一斉に武田氏靡く事態を防ぐ事には成功した武田氏にとっても長野盆地進出阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏本領埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応成果得たといえる景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官御礼言上のため上洛して後奈良天皇拝謁し、「私敵治罰綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦い大義名分得た一方、晴信は信濃国佐久郡下伊那郡木曽郡制圧進めている。 なお、最初八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関して景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認取れないとして、疑問呈している。[要出典]

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