第一次合戦
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2月19日(月齢4、曇天暗夜、視界8km)23時50分、笹子丸の舟艇揚収は終わり、3隻(大潮、朝潮、笹子丸)はバリ島サヌール泊地を出港しようとしていた。23時53分、朝潮は南方約6kmに接近してくる『ジャバ型巡洋艦2隻』を発見した。この時、泊地に突入してきたのは軽巡2隻(デロイテル、ジャバ)、駆逐艦3隻(蘭国〈ピートハイン〉、米国〈ジョン・D・フォード、ポープ〉)の計5隻である。軽巡2隻と駆逐艦3隻の間は距離があった。2月20日0000頃、軽巡2隻(デロイテル、ジャバ)が朝潮に対し砲撃および照明弾を発射、朝潮も応戦して距離2000m同航戦となったが、出航直後で速度が上がらず、砲戦開始まもなく敵艦を見失った。被害は探照灯に弾片があたったのみで、朝潮は『我敵「ジャバ」型ト交戦中「ロンボック海峡」』と報告した。蘭巡洋艦2隻(デロイテル、ジャバ)は再攻撃することなく、泊地北方へ去った。 先に出航していた大潮(第8駆逐隊司令駆逐艦)は朝潮の前方2-3kmにおり、砲戦を見て航進を開始したが接敵しなかった。すると南の煙幕の切れ目に駆逐艦1隻(ピートハイン)の北上を確認し、南へ向かった。朝潮も南へ向かっており、20日0011に同航する駆逐艦1隻(ピートハイン)を発見し1500mで射撃を開始、距離1000mで魚雷を発射し0016に撃沈を報告した。しかし、ピートハインは大破しながらも沈んでおらず、低速で動いていた。つづいて8駆1小隊(大潮、朝潮)はそれぞれ南下、右舷2000mに同航する駆逐艦2隻(フォード、ポープ)を発見して砲撃を開始するが、米駆逐艦2隻は煙幕を展開して逃走した。2隻(大潮、朝潮)は敵艦が北方へ逃げたと判断して反転北上、0042に合同して単縦陣を形成した。 20日0045、8駆1小隊(大潮、朝潮)は左前方3500mに駆逐艦2隻(実はピートハイン1隻)を発見して砲撃を開始、0047に1隻火災発生沈没、もう1隻にも火災を発生させたと報告。ピートハインは炎上しながらも反撃を行ったが、最終的に撃沈された。2隻(大潮、朝潮)は砲撃を続けながら北上と南下を繰り返し、1時10分に敵艦が姿を消したのを確認した。0140、阿部司令は『敵「ジャバ」型2隻ハ「ロンボック」海峡ヲ北方ニ遁走セリ 後ニ残レル駆逐艦三隻ハ二隻撃沈一隻大破我被害ナシ 〇一四〇』と報告する。ピートハイン1隻撃沈に対し『駆逐艦2隻撃沈、1隻大破』と誤認した原因は、海面に広がった燃料の火焔を、炎上敵艦と錯覚した為と思われる。第一次合戦が終了した後、8駆1小隊(大潮、朝潮)は泊地を哨戒した。 支援隊(第一根拠地隊司令官久保少将)が座乗する軽巡長良は2月19日午前8時にマカッサルを出発、第21駆逐隊(若葉、子日、初霜)と合同後、夕刻にはロンボック海峡の北80浬にいた。第8駆逐隊第1小隊からの戦闘報告を受けて南下を開始するが、同時にマカッサル帰投中の第8駆逐隊第2小隊(満潮、荒潮)に同第1小隊(大潮、朝潮)の支援を、相模丸は単艦でのマカッサル回航を命じた。8駆2小隊(荒潮、満潮)は反転して第1小隊との合流を急いだ。
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第一次合戦
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先行した2隻の連合軍巡洋艦隊(パース、ヒューストン)は、途中のジャワ島バンタム湾(バビ島)付近に差し掛かったとき、前方に日本軍の神州丸以下の輸送船団を発見した。付近に護衛艦艇を発見できなかったことから、両艦はこれを攻撃すべくバビ島の東側をまわってパース-ヒューストンの単縦陣で突撃を開始した。しかし、既に両艦は3月1日0009(0時9分、以下時間は数字表記のみ)、バビ島西方で哨戒を行っていた駆逐艦吹雪(第11駆逐隊)に発見されていた。吹雪は2隻の後方8,000mを追尾、敵艦の行動を逐一護衛司令部に報告していた。一方、セントニコラス岬沖合いで哨戒中だった原司令官座乗の軽巡名取、第11駆逐隊(初雪、白雪)も0018、東方2万mに敵艦を発見する。更に0029、パンジャン島沖合いを哨戒中の駆逐艦春風(第5駆逐隊)も距離8,000mで敵艦を発見、通報する。しかしこの時点においても連合軍の2艦は未だに日本軍の護衛部隊を発見しておらず、突撃を続けていた。 原司令官は一刻の猶予も無いと判断、第三護衛隊全艦に対して集結命令を出すと、北方沖合を哨戒中だった西部支援隊(第七戦隊第2小隊〈三隈、最上〉、第19駆逐隊〈敷波〉)に対しても集合するよう命じた。続いて名取と第11駆逐隊に「魚雷戦用意」を下令、また第5駆逐隊(春風、旗風、朝風)に集結を命じた。原司令官は迎撃準備を整える一方、敵が味方重巡の出現により形勢不利と考えて遁走することも警戒していた。従って戦闘は軽巡名取と駆逐隊で敵艦を広い海面に誘い出し、味方船団からも引き離した上で一挙に戦力を集中して撃滅する、という方針を立てた。 しかし、そうこうしているうちにパースとヒューストンは日本軍輸送船団に接近、0037まずパースが照明弾を発射した。これに続いてヒューストンが輸送船に対して主砲で砲撃を始めたが、遠距離砲戦のため命中弾はなかった。一方、連合軍はようやく後方に艦がいることに気づいた。パースが発光信号で誰何を行った直後の0044、後方を追尾していた駆逐艦吹雪が距離2,500mでヒューストンに対して魚雷9本を発射し、更に12.7センチ主砲を16発発射した(吹雪は魚雷命中と誤認)。これに対して2隻(パース、ヒューストン)は面舵で急旋回を行い魚雷を回避しつつ、照射砲撃で反撃したが、吹雪は煙幕を展張して避退した。また船団に対する2隻(パース、ヒューストン)の砲撃開始と『敵機吊光投弾ヲ投下ス』を見た春風(第5駆逐隊司令駆逐艦)が連合軍2隻(パース、ヒューストン)と船団の間に割って入り、0037から0057にかけて煙幕を展張した。この煙幕は当時まだレーダーを装備していなかった連合軍艦船に対して極めて有効に働き、これによって連合軍の両艦は船団砲撃が出来なくなった。 原司令官も敵艦の味方船団への砲撃開始を確認した直後の0045、これを救援すべく麾下の第5駆逐隊と第11駆逐隊に対して「駆逐隊突撃せよ」と下令した。しかし船団傍にいた第5駆逐隊の旗風は敵艦との距離が3,500mまで近接しており、0052照射砲撃を開始したが12センチ砲4門では巡洋艦2隻の相手にはならず、反撃を受けて避退、一旦集結地点へ向かい北上した。第5駆逐隊は0102、セントニコラス沖北方約10kmの海上で合流すると単縦陣となり、突撃を開始した。
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第一次合戦
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織田信秀の西三河平野部への進出に対し、松平氏を後援しつつ東三河から西三河へと勢力を伸ばしつつあった今川義元は、西三河から織田氏の勢力を駆逐すべく、天文11年(1542年)8月(一説に12月)、大兵を率いて生田原に軍を進めた。一方の織田信秀もこれに対して安祥城を発し、矢作川を渡って対岸の上和田に布陣。同月10日(9月19日)、両軍は岡崎城東南の小豆坂において激突した。 この戦いは、織田方の小豆坂七本槍をはじめとした将士の奮戦によって織田軍の勝利に終わったとされる。また、第一次合戦の今川方大将の「いはら」は庵原であり、太原雪斎のことである。 しかしながら、この第一次合戦については虚構であるという説もある。それは今川氏の東三河進出が天文12年(1543年)以降のことであることによる。また、当時の今川氏は本拠地である駿河国東部でも北条氏と衝突を繰り返していたこと(河東一乱)にも留意する必要がある。
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第一次合戦
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「薩埵峠の戦い (戦国時代)」の記事における「第一次合戦」の解説
永禄11年12月12日(1568年12月30日)から翌日にかけて行われた戦いを「第一次合戦」と称する。 桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏真が家督を継承したが、長年の今川氏の領国支配から三河の松平元康(徳川家康)が離反した。この状況を見た甲斐の武田信玄は、長年維持してきた甲相駿三国同盟を破棄し今川領である駿河を併合して「海への出口」を確保する方針に転換、徳川家康と秘かに約束を結び駿河遠江両国の境界となっていた大井川を境として武田・徳川両氏が今川領を分割することとした。 永禄11年12月6日、武田信玄は甲府を出発し、6日後には駿河国庵原郡内房(現在の静岡県富士宮市)にまで達した。この知らせに驚いた今川氏真は直ちに庵原忠胤に1万5千の兵を率いて薩埵峠で迎え討つように命じ、自らも清見寺に陣を構えた。更に自らの義父でもある相模の北条氏康にも使者を発し、直ちに出陣して信玄の背後を突くように要請した。氏真は武田軍が今川氏の本拠地である駿府を攻めるには薩埵峠を経由するほかなく、ここを固めて迎撃していれば必ず北条氏の援軍と挟みうちにできると読んでいたのである。12日より峠の東側で戦いが始まり今川軍はよく峠を守った。しかし武田方、或いは徳川方は重臣級にも内通を呼びかけており、朝比奈氏・葛山氏など21名が秘かに武田方に内通する姿勢をみせた(『松平記』など)。13日には身の危険を感じた今川氏真は清見寺を脱出して駿府の今川館に逃れ、駿府の北西にある詰城賤機山城に籠城しようとした。だが、氏真の撤退が最前線に伝わると総崩れを起こし、これを追いかける形で武田軍は薩埵峠を突破、その日のうちに駿府に突入した。
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第一次合戦
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川中島の戦いの第一次合戦は、天文22年(1553年)に行われ、布施の戦いあるいは更科八幡の戦いとも言う。長尾景虎(上杉謙信)が北信濃国人衆を支援して、初めて武田晴信(武田信玄)と戦った。 天文22年(1553年)4月、晴信は北信濃へ出兵して、小笠原氏の残党と村上氏の諸城を攻略。支えきれなくなった村上義清は、葛尾城を捨てて越後国へ逃れ、長尾氏と縁戚につながる高梨氏を通して上杉景虎に支援を願った。5月、村上義清は北信濃の国人衆と景虎からの支援の兵5000を率いて反攻し、八幡の戦い(現・千曲市八幡地区、武水別神社付近)で勝利。晴信は一旦兵を引き、村上義清は葛尾城奪回に成功する。7月、武田氏軍は再び北信濃に侵攻し、村上氏方の諸城を落として村上義清の立て籠もる塩田城を攻めた。8月、村上義清は城を捨てて越後国へ逃れる。 9月1日、景虎は自ら兵を率いて北信濃へ出陣。布施の戦い(現長野市篠ノ井)で武田軍の先鋒を破り、軍を進めて荒砥城(現千曲市上山田地区)を落とし、3日には青柳城を攻めた。武田氏軍は、今福石見守が守備する苅屋原城救援のため山宮氏や飯富左京亮らを援軍として派遣し、さらに荒砥城に夜襲をしかけ、長尾氏軍の退路を断とうとしたため、景虎は八幡原まで兵を退く。一旦は兵を塩田城に向け直した景虎だったが、塩田城に籠もった晴信が決戦を避けたため、景虎は一定の戦果を挙げたとして9月20日に越後国へ引き揚げた。晴信は10月17日に本拠地である甲斐国・甲府へ帰還した。 この戦いは川中島を含む長野盆地より南の千曲川沿いで行われており、長野盆地の大半をこの時期まで反武田方の諸豪族が掌握していたことが判る。長尾氏にとって、村上氏の旧領復活こそ叶わなかったが、村上氏という防壁が崩れた事により北信濃の国人衆が一斉に武田氏に靡く事態を防ぐ事には成功した。武田氏にとっても、長野盆地進出は阻まれたものの、小県郡はもちろん村上氏の本領・埴科郡を完全に掌握でき、両者とも相応の成果を得たといえる。 景虎は、第一次合戦の後に、叙位任官の御礼言上のため上洛して後奈良天皇に拝謁し、「私敵治罰の綸旨(りんじ)」を得た。これにより、景虎と敵対する者は賊軍とされ、武田氏との戦いの大義名分を得た。一方、晴信は信濃国の佐久郡・下伊那郡・木曽郡の制圧を進めている。 なお、最初の八幡の戦いにも景虎自らが出陣したとする説がある反面、武田氏研究者の柴辻俊六は、布施の戦いに関しても景虎が自ら出陣したとする確実な史料での確認が取れないとして、疑問を呈している。[要出典]
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