アメリカの対日経済「封鎖」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 05:41 UTC 版)
「ABCD包囲網」の記事における「アメリカの対日経済「封鎖」」の解説
アメリカ合衆国は日露戦争以降、中国東北部およびロシアシベリア権益について日本と対立と協調を繰り返してきたが、日本は満州善後条約や満州協約、北京議定書・日清追加通商航海条約、対華21カ条要求における2条約13交換公文などを根拠に「宣戦布告せず交戦する技術」を進化させてきたのに対し、アメリカが採用した「宣戦布告せず経済制裁する技術」が対日経済封鎖である。アメリカは日本と開戦しておらず、国際連盟が対日経済制裁を決定する(1938年9月30日)以前には公然と経済制裁によって対中協力をおこなうことはできない。また国際連盟に参加していないため国際連盟と協調行動をとり対日経済制裁に参加する国際法上の、あるいはアメリカ国内法上の根拠がない、とくに日米はともに不戦条約締約国でありアメリカ側からの対日宣戦と受け取られかねない国家実行はアメリカ上院の許容するところではなかった(宣戦布告はアメリカ上院の権限)。欧州で大戦が勃発(1939年9月3日英仏対独宣戦布告)した後も、アメリカは外交上中立を維持し9月5日に中立宣言を発布していた。 アメリカは満州事変の発生、とくにルーズベルトが大統領に就任した1933年3月以降、対日貿易を制限する根拠となる法令を成立させてきた。これは直接的には1929年から発生した世界恐慌を乗り切るための経済ブロック政策としての面があり、関税・輸出品目統制・金融機関への窓口指導・制限品目への監視体制などである。貿易は原則自由から制限許可制となっており、戦略物資はアメリカからの輸出を原則禁止としたうえで除外国リストから日本(あるいはドイツなど)を慎重に除去するだけでよかった。ルーズベルトは1933年には修正対敵通商法を成立させており、この法律は国家が戦争状態にあるとき、議会の承認なく重要な法律や政令を実行に移すことを可能にしたものであるが、ルーズベルトは恐慌の発生を国家の戦争状態とし[要出典]1933年 銀行法(大統領令6102 のちグラス=スティーガル法)の通達を発するなどすでに議会から(平和裏の)非常時権限を一部獲得していた。1940年の日米通商航海条約失効以降はアメリカ側が輸出入に関して制限をかけても日本に対抗手段がない状態となった。さらに対敵通商法の適用国となればアメリカの民間人がある国(日本人)と自由に、あるいは第三国を経由して交易をおこなうことを制限する完全許可制となり、対敵通商法の適用を匂わせることで日本に対する「紙上封鎖」圧力を加えることができた。当時は金本位制であり日本政府の為替決済用在外資産はニューヨークとロンドンにあり、ニューヨークの日本政府代理店(横浜正金銀行)には1億ドルの金融資産があった。 1920年代後半、第二次北伐やそれにともなう山東出兵、済南事件などをうけ、蒋介石政権は大衆を動員した政治運動として日貨排斥運動を展開しており、1928年5月14日には上海反抗日軍暴行委員会が組織され対日経済絶交を宣言していた。アメリカ政府が、上院の許容する外交権限の範囲で、上院の前提とする国際条約と国際法の範囲内において、国内法を使用してイギリス・オランダを含め東アジアの欧米植民ブロックから日本を締め出すためには、議会や(アメリカ大統領には議会への法案提出権は無い)大衆への説得、慎重で精密な法の構成と運用が必要であった[要出典]。
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