孫文配下として
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1915年(民国4年)12月、護国戦争が勃発すると程潜は帰国して昆明に向かい、護国軍湖南招撫使に任ぜられた。翌年4月には、湖南へ進軍して護国軍湘軍(湖南軍)総司令に任ぜられた。そして袁世凱に味方していた湖南督軍湯薌銘を撃破し、7月には長沙に入城している。しかし袁死後の北京政府は、後任の湖南督軍に譚延闓を任命したため、程は憤慨して上海に去ってしまった。 1917年(民国6年)8月、孫文が護法運動を開始すると、程潜は孫の命を受けて湖南省辺境に赴く。9月18日、衡陽・永州を拠点に湖南護法軍総司令として蜂起した。まもなく北京政府が援湘軍を派遣してきたが、劣勢にもかかわらず程は善戦し、11月には一時長沙を攻略している。しかしやはり兵力差は覆せず、次第に省辺境の郴州に追い込まれ、1919年(民国8年)6月、上海へ逃れた。 1920年(民国9年)12月、孫文が広州で軍政府を再組織すると、程潜は陸軍次長に任命され、部務を代理した。翌年10月には、桂林で大本営陸軍部次長(代理総長)となる。1922年(民国11年)6月、陳炯明がクーデターを起こすと、程潜は千人余りの軍勢を率いてこれに反撃し、孫から討逆軍総司令に任じられた。その翌年2月には大本営軍政部長に任ぜられ、東江討逆総指揮も兼ねて陳討伐に従事した。この年に広州で大本営陸軍講武学校が創設され、程が校長に任命された。
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