袁世凱の腹心に
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1908年(光緒34年)3月、楊度は湖南華昌煉鉱公司を創設し、その董事長に就任した。翌月、軍機大臣張之洞・袁世凱が連名で奏上したことで楊は四品京堂・憲政編査館提調に任ぜられてからは頤和園で皇族に講義するなど憲政の第一人者となり、欽定憲法大綱の策定に関わったとして反立憲派からは批判された。さらに楊は袁の腹心・参謀として活動することになる。1911年(宣統3年)10月の武昌起義に際しては、袁に革命派鎮圧に赴くことを拒否するよう進言し、袁もこれを容れている。 慶親王内閣で統計局長を任ぜられ、袁世凱内閣では学部副大臣に任ぜられた。その一方で、楊は汪兆銘(汪精衛)とともに、国事共済会という組織を立ち上げ、南北和議と政治体制の議論などを進めようとしている。その後の南北和平交渉にも、楊は参与した。 中華民国成立後の1912年(民国1年)1月、楊度は袁世凱から二等嘉禾勲章を授与された。その後、総統府政治顧問、憲政委員会委員、参政院参政、国史館副館長(館長代理)、総統府内史監内史を歴任している。9月、楊は黄興から国民党加入を勧められたが、政党政治を望まない楊はこれを拒否した。
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