袁世凱死後の活動
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6月の袁世凱死後、周自斉は、後任総統の黎元洪から皇帝即位を画策した首謀者として指名手配を受けてしまう。そのため周は日本へ亡命した。1917年(民国6年)7月に黎が失脚すると周は帰国する。1918年(民国7年)3月に指名手配も取り消されて政界に復帰した。同年9月、安福国会で徐世昌が大総統に選出されると、周ら交通系はこれを支持する。さらに徐の意を受けて、南北和平のための活動を開始したが、これは結局失敗に終わった。 その後も、周自斉は北洋系派閥の争いに巻き込まれ、財務・外交のいずれでも力量を十分に発揮することが出来なかった。1922年(民国11年)4月から6月まで、署理国務総理をつとめたものの、やはり目立った成果は残せていない。署理国務総理辞任後も活動に精彩を欠き、要職に復帰できなかった。 1923年(民国12年)10月20日、北京で病没。享年53。
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