袁世凱討伐、中国国民党での活動
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「鈕永建」の記事における「袁世凱討伐、中国国民党での活動」の解説
中華民国成立とともに、鈕永建は参謀本部参謀副長(参謀総長:黄興)に抜擢された。しかし、袁世凱が臨時大総統となると、鈕も孫文らとともに職を解かれ、以後は孫文と行動を共にする。1913年(民国2年)、二次革命(第二革命)が勃発すると、上海で鈕も参加したが、敗北して日本に亡命した。 日本では、鈕永建は中華革命党の組織に参与した。しかし孫文と黄興との路線対立が惹起されてしまうと、両者との関係が深かった鈕は、結局中華革命党に参加することをあきらめ、再びヨーロッパに留学した。民国4年(1915年)10月、帰国して、討袁活動に上海で参加した。陳其美が暗殺されるとその葬儀を主宰し、同年の黄興の死に際しても、葬儀の運営に関わった。 1917年(民国6年)9月から、孫文の護法戦争に参加する。翌年初めに、軍政府参謀次長等に就任した。その後も孫文に随従して各種事務・工作に奔走し、中国国民党にも加入している。民国13年(1924年)冬の孫文の北京行にも随従し、孫文の死を看取った。1926年(民国15年)7月、国民革命軍総司令部参議に任じられ、上海での後方活動に従事する。上海クーデター(四・一二事変)直前に、一時下野した。
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