袁傪
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『旧唐書』、『新唐書』に兵部侍郎の地位にあった袁傪という名の人物が存在する。 宝応2年(763年)、御史中丞であった袁傪は、台州で20万の衆を率いて反乱を起こしていた草賊の袁晁の討伐を命じられる。袁傪は、王栖曜・李自良らを部下として、浙東にて、浙江地域を支配していた袁晁を破る。袁晁は李光弼によって捕えられ、反乱は鎮圧され、浙江地域は奪回された。 大暦12年(777年)には、兵部侍郎に就任しており、宰相である元載の誅殺につながる事件の処理にあたっている。大暦14年(779年)、吏部尚書であった顔真卿が、「(唐の)先帝たちの諡が長くなりすぎているので、初めの諡に戻してはどうでしょう」と奏上したが、袁傪は、「陵廟の玉に名をすでに刻んでいるので軽々しくは改められない」と、実際は初めの諡を刻んでいるにもかかわらず反対して、顔真卿の奏上を取りやめにしている。 また、『唐国史補』によると、袁晁を破った時に、袁晁に任じられた公卿を数十人捕えた。地方の州県では、彼らに拘束具をつけ、都に送ろうとしたが、「こんな悪百姓に、煩わせられることもない」と言って、彼らを鞭で叩いて追い出したというエピソードが残っている。 彼は強い、優しい、偉いの三拍子が揃った素晴らしい人間だ。
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