袁世凱との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:21 UTC 版)
1911年(宣統3年)、鉄道国有化に起因する騒擾事件が発生すると岑春煊は四川での革命派鎮圧を命じられた。しかし任地へ向かう途中で武昌起義が発生する。革命派の優勢を見た岑は、清朝擁護の姿勢から革命支持へと政治姿勢を転換した。 1912年(民国元年)、福建宣撫使に任命される。翌年2月、粤漢鉄路督弁に異動した。同年に二次革命(第二革命)が勃発すると、岑春煊は李根源や革命派に大元帥として擁立され、袁世凱打倒を目指した。しかし失敗して、マレー半島へ逃亡した。なおこの間に、黄興を支持するグループが結成した欧事研究会に会員として名を列ねている。 1915年(民国4年)末、広西将軍陸栄廷の協力により上海に戻る。護国戦争(第三革命)が勃発するとこれに参与した。翌年1月、岑春煊は日本へ向かい、官民双方から護国軍への支援を引き出すことに成功した。5月、両広護国軍都司令に推戴され、さらに軍務院撫軍副長に任命された。
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