疑古
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疑古(ぎこ、拼音: )とは、古代中国史の歴史記述をめぐる、歴史学・文献学・考古学の立場(歴史観・方法論・歴史学研究法)の一つ。疑古主義ともいう[1][2]。
注釈
- ^ 「疑古」という語彙自体は古くからある。例: 唐代の『史通』疑古篇[4]
- ^ 竹元 2023, p. 232-234 に各冊の内容がまとめられている。
- ^ 春秋魯の僖公の時代[12]。
- ^ 白鳥の師である那珂通世が、1903年-1904年に崔述の『考信録』を翻刻している[25]。
- ^ 内藤湖南が仲基のことを知ったきっかけとして、彼が若い頃(ジャーナリスト時代)の上司で著名な仏教学者、大内青巒の影響があったとされる[26]。
- ^ 「信古」と「釈古」の違いとしては、「釈古」の方がより優れた立場、すなわち「疑古」と「信古」を止揚する(どちらにも囚われずに調停する)第三の立場、つまり史料批判をしつつ古史を好意的に解釈する立場、という意味で「釈古」と呼ばれる。そのような「信古」と「釈古」の呼び分けは、1930年代の馮友蘭によって提唱された[40]。あるいは後述の王国維が1920年代の時点で既にそのような立場をとっていた[41]。
- ^ ただし、当の王国維は一年前の1927年に自殺して世を去っていた[42]。
- ^ そのような遺跡の発掘作業は、中国人のナショナリズムと密接に繋がっていた。というのも、殷墟より前の仰韶遺跡や敦煌文献の発掘が、西洋人や日本人によって一方的に進められてきたという歴史があったためである[43]
- ^ 殷墟や二里頭遺跡が発掘された当時、それらが本当に殷や夏のものかをめぐっては、中国と日本のあいだで温度差があった[44]。なかでも上述の宮崎市定は、殷墟や甲骨文に対しても懐疑的な立場を固持していた[45]。
- ^ そのような覆された偽書説(仮託説)のうち、『老子』の説に関しては事情がやや複雑で、学者によって様々な見解がある(詳細は 老子 を参照)。
出典
- ^ 谷中 1998.
- ^ 岳 2005, p. 43.
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- ^ 佐藤 2018, p. 269(林澐の論文の紹介).
- ^ 曹峰著、西山尚志訳 2008.
- ^ 佐藤 2018, p. 269.
- ^ Lothar von Falkenhausen “On the historiographical orientation of Chinese archaeology”. Antiquity. (1993). doi:10.1017/S0003598X00063821. / ロタール・フォン・ファルケンハウゼン著、穴沢咊光訳「中国考古学の文献史学指向」『古文化談叢』第35巻、1995年。
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- ^ 小寺敦「「骨董市場竹簡」をめぐる諸問題」『東京大学東洋文化研究所附属東洋学研究情報センター報』第25巻、2011年。
- ^ 浅野裕一、小沢賢二『浙江大『左伝』真偽考』汲古書院、2013年。ISBN 978-4762965197。
- ^ 大西克也「浙江大学蔵竹簡『左伝』は研究資料たり得るか」『汲古』第72巻、汲古書院、2017年。
- ^ 佐藤 2018, p. 268-272.
疑古派
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疑古の立場は、1920年代の顧頡剛・銭玄同・胡適らにより提唱された。とくに銭玄同は「疑古玄同」を名乗るほどに疑古を支持していた。彼らはみな当時30歳から40歳前後の若手研究者だった。 特に、顧頡剛らが1926年に創刊した論文集『古史辨』が、疑古の主な発信源になった。『古史辨』は1926年から1941年まで刊行され、計7巻350篇の論文が掲載された。主な寄稿者としては上記三人のほか、羅根澤(中国語版)・銭穆・童書業(中国語版)・呂思勉(中国語版)・楊寛らがいる。特に銭穆と童書業は、元々はアマチュア・在野の研究者だったが、顧頡剛に抜擢されて専業の研究者になった人物でもあった。 顧頡剛らが疑古を提唱した背景として、1910年代に流行していた新文化運動がある。新文化運動とは、儒教に代表される伝統的な中国文化を、前近代的・停滞的な旧文化として批判し、それに代わって、科学的方法に基づく近代的・進歩的な新文化を広めようとする運動である。とりわけ、運動の主導者でもあるアメリカ帰りの胡適が、運動と同時期に構築していた中国哲学史通史の記述方法は、当時北京大学の学生だった顧頡剛に強い影響を与えた。ただし、胡適は最終的に疑古から離反することになる。
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