『春秋』の作者と成書年代
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伝統儒学では『春秋』の成立に孔子が関わったとされる。ただし、歴史的にその解釈は一様ではない。 最初に孔子の『春秋』制作を唱えたのは孟子である。孟子は堯から現在に至るまでの治乱の歴史を述べ、周王朝の衰微による乱世を治めるために孔子が『春秋』を作り、その文は歴史であるけれども、そこに孔子の理想である義を示したという(ただし、この孟子の「作春秋」にもいろいろな解釈があり、「『春秋』を講説した」とする立場もある)。 前漢の司馬遷『史記』にも似たような記述があり、孔子が「魯の史記」(原「春秋」)を筆削して『春秋』を作ったという。このように前漢の春秋学ではもっぱら『春秋』から孔子の微言大義(微妙な言葉遣いの中に隠された大義)を探ろうとする『春秋公羊伝』に基づく公羊学が隆盛した。 しかし、後漢になると、孔子を周公の祖述者とする古文学が隆盛し、『春秋』には『春秋左氏伝』による解釈学が起こった。『春秋』を周公の伝統を受け継いだ魯の史官が書いた「魯の史記」そのものと見、孔子は「述べて作らず」でそれを祖述したとする見方が一般的になった。 唐代になると劉知幾の『史通』惑経を始めとして、『春秋』を経とすることを疑う主張も現れはじめた。北宋の王安石に至っては『春秋』を「断爛朝報」(ばらばらの官報)とし、その欠文は孔子の義が示されているようなものではなく、単なる不備だと見るようになった。一方で、春秋胡氏伝のように孔子の義を見いだそうとする立場も続けられた。 清代になると常州学派がふたたび漢代公羊学を取りあげ、『春秋』を含めた六経を改制者としての孔子が創作したものとした。 中華民国初期になると、雑誌『古史弁』を主宰する顧頡剛ら疑古派が現れ、孔子と『春秋』との関係を完全に否定した。現在では著作という強い主張はないものの何らかの関係を認めるもの、まったく関係ないとするもの両者がある。 近代になると、歴史学や天文考古学の方法を取り入れた中国学者によって議論が展開される。1925年、飯島忠夫は『春秋』に記載される日食は紀元前300年前後に西洋から入ったサロス周期によって遡って組み込まれたものだと主張した。これに対して、新城新蔵は『春秋』に記載される日食は、必ずしもサロス周期によっておらず西洋からの暦法の影響はないと飯島説を批判した。 現代になると、斉藤国治・小沢賢二は『春秋』に記載される日食を数理的に検証し、歴代の中国史書の日食推算の的中率は70パーセントと低いのに対して魯の暦法は実際の観測記録に基づく日食であるため、日食総数37例のうち的中率は95パーセント(37例)であるとした。 張培瑜も斉藤国治・小沢賢二と同様の見解で『春秋』に記載される日食は観測実録であると断定している。 ちなみに、小嶋政雄は、中国の暦法が『毛詩』『尚書』などでは日月惑星を観察して日付を決める素朴な暦法しか見られないのに対し、『春秋』になると突然、高度な四分暦が使われているという点を指摘し、『春秋』は紀元前300年前後に西欧から入ったカリポス暦法によって遡って改装されたものだと述べた。だが、この見解は飯島説と本質的に同じで真新しさはない。加えて、小嶋は高度な四分暦が使われていると述べているが具体的な論拠はなく、また『毛詩』『尚書』には惑星に関する記述もない。 また近年では新説も提出されているが、諸説紛々として定論をみないのが現状である。
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