『春秋左氏伝』での略歴
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紀元前656年、主君の陳の宣公と共に斉の桓公率いる諸侯連合軍に合流し、楚の屈完との会合(召陵の会)に参加した。会合からの帰途に際し、轅濤塗は鄭の申侯に、「諸侯連合軍が陳と鄭の間を通って帰るならば、二国にとって大きな負担になる。海沿いに帰還してもらったほうが良くないか」と言った。申侯が賛成したので、轅濤塗は桓公にこれを提案して許された。ところが申侯が心変わりして桓公に、帰りは陳と鄭の間を通り、二国に食料などを用意させるよう提案したため、桓公は喜んで申侯を賞するとともに、轅濤塗を逮捕し、陳に侵攻した。それを受けて陳が和議に応じたため、轅濤塗は釈放された。 翌年、轅濤塗は申侯に、彼が賜った虎牢に城壁を築くことを提案した。城壁が完成した後、轅濤塗は鄭の文公に「申侯が虎牢に城壁を築いたのは、鄭からの離反を計画しているからだ」と讒言した。文公はこれを信じ、申侯を処刑した。これにより、轅濤塗の復讐は達成された。 また、24年後の紀元前631年に晋が主催する翟泉の盟に参加した記録が残されており、長い間陳の大臣を務めたことが分かる。
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