エドワード征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 20:18 UTC 版)
「エドワード1世のウェールズ征服(英語版)」も参照 1282年3月22日、イングランドとウェールズ間で再び戦争が勃発した。ウェールズ大公サウェリン・アプ・グリフィズは、同年12月11日、戦死に追い込まれた。サウェリンの弟ダヴィズ(英語版)(デイヴィッド)が後を継いでウェールズ独立の戦いを続行したが、彼も策略にはまり1283年6月に捕らえられた。ウェールズ北部に侵攻したエドワードは、ドルゥイゼラン城(英語版)(1283年1月)などを占領し、コンウィに自らの城を置くようにすると、ダヴィズ・アプ・グリフィズの最後の牙城であったドルバダーン城(1283年5月頃)を占領していた。その後間もない夏には、エドワードはハーレフとカーナーヴォンにおける築城を開始している。カーナーヴォン、コンウィ、ハーレフの城は、ウェールズで当時極めて広壮なもので、その建造物は、北ウェールズのスノードニア(エラリ〈ウェールズ語: Eryri〉)を囲む「鉄の輪(英語版)」(鉄環、城の鎖)となる他のエドワードの城とともに、イングランド人の支配を確立する役割を果たした。
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