対ロシア・ツァーリ国の外交策
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「フメリニツキーの乱」の記事における「対ロシア・ツァーリ国の外交策」の解説
オスマン帝国との外交と並行してフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和国の宿敵、東北のロシア・ツァーリ国とやり取りを行っていた。1648年5月にコサック・タタール同盟軍がジョーウチ・ヴォーディの戦いで勝利したことによってウクライナで庶民による反乱が勃発したので、ロシア側はタタールと反乱者の来襲を警戒して軍を動員しはじめた。その軍はコサック・タタール同盟軍の背後を突く可能性があったため、フメリニツキーは6月18日にツァーリ・アレクセイ宛に書状を出し、同盟軍がロシア・ツァーリ国に侵入しないことを約束してポーランドと戦うための援軍を頼んだ。書状を受けたツァーリは軍の動員を中止したものの、スモレンスク戦争でポーランドのために失った西方の領土を取り戻す十分な力がなかったのでコサックへの援軍を出さなかった。1649年1月以降、コサック側は頻繁にロシア・ツァーリ国に援軍を依頼したが、ロシア側はその依頼をつねに却下した。それがために、1649年4月よりモスクワへのフメリニツキーの書状では、ロシア・ツァーリ国の参戦を促すため、コサック軍の軍事的支援の請願が次第にコサックの自治領域をツァーリの保護下に置くよう求めるという政治的支援の請願に転化していった。1650年末以降、ロシア側は自力ではポーランドからの領土復帰を得られないと考えるようになり、1651年2月にモスクワの全国議会はポーランドとの平和条約遮断を議決し、1652年3月よりコサックとの同盟を結ぶ方向へゆっくりと動き始めた。1653年6月30日に、オスマン帝国がコサックの国家を自分の保護国にすることを承諾したとの通知がモスクワに届くと、ツァーリは、ウクライナが反ロシア勢力になることを恐れて、大急ぎで7月2日にフメリニツキー宛の書状を出し、ウクライナをロシア・ツァーリ国の保護国として受け入れることを約束した。さらに、ツァーリの書状を確証するかのように、1653年10月11日にロシア・ツァーリ国の全国議会は同じ内容の宣告書を可決した。その後、10月13日にヴァシーリイ・ブトゥルリーンが大使を勤めるロシア・ツァーリ国の使節が編成されてウクライナへ派遣され、11月上旬にウクライナのプティーウリという国境の町に到着した。使節はそこで1654年初めまで滞在し、ツァーリの保護について会議を行うコサックの長官はペレヤースラウ町で集会の日を待っていた。1月9日に使節はやっとペレヤースラウに招待され、1月16日に帰着したばかりのフメリニツキーと会見した。
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