対ロシア・ツァーリ国の外交策とは? わかりやすく解説

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対ロシア・ツァーリ国の外交策

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)

フメリニツキーの乱」の記事における「対ロシア・ツァーリ国の外交策」の解説

オスマン帝国との外交並行してフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和国宿敵東北ロシア・ツァーリ国やり取り行っていた。1648年5月にコサック・タタール同盟軍ジョーウチ・ヴォーディの戦い勝利したことによってウクライナ庶民による反乱勃発したので、ロシア側はタタール反乱者の来襲警戒して軍を動員しはじめた。その軍はコサック・タタール同盟軍背後を突く可能性があったため、フメリニツキー6月18日にツァーリ・アレクセイ宛に書状出し同盟軍ロシア・ツァーリ国侵入しないことを約束してポーランドと戦うための援軍頼んだ書状受けたツァーリは軍の動員中止したものの、スモレンスク戦争ポーランドのために失った西方領土取り戻す十分な力がなかったのでコサックへの援軍を出さなかった。1649年1月以降コサック側は頻繁にロシア・ツァーリ国援軍依頼したが、ロシア側はその依頼をつねに却下した。それがために、1649年4月よりモスクワへフメリニツキー書状では、ロシア・ツァーリ国参戦促すため、コサック軍軍事的支援の請願次第コサック自治領域をツァーリ保護下に置くよう求めるという政治的支援請願転化していった1650年以降ロシア側は自力ではポーランドからの領土復帰得られない考えるようになり、1651年2月モスクワ全国議会ポーランドとの平和条約遮断議決し1652年3月よりコサックとの同盟を結ぶ方向ゆっくりと動き始めた1653年6月30日に、オスマン帝国コサックの国家自分保護国にすることを承諾したとの通知モスクワに届くと、ツァーリは、ウクライナ反ロシア勢力になることを恐れて大急ぎ7月2日フメリニツキー宛の書状出しウクライナロシア・ツァーリ国保護国として受け入れることを約束した。さらに、ツァーリ書状確証するかのように1653年10月11日ロシア・ツァーリ国全国議会は同じ内容宣告書を可決したその後10月13日にヴァシーリイ・ブトゥルリーンが大使勤めロシア・ツァーリ国使節編成されウクライナ派遣され11月上旬ウクライナプティーウリという国境の町到着した使節はそこで1654年初めまで滞在しツァーリ保護について会議を行うコサック長官ペレヤースラウ町で集会の日を待っていた。1月9日使節はやっとペレヤースラウ招待され1月16日帰着したばかりのフメリニツキー会見した

※この「対ロシア・ツァーリ国の外交策」の解説は、「フメリニツキーの乱」の解説の一部です。
「対ロシア・ツァーリ国の外交策」を含む「フメリニツキーの乱」の記事については、「フメリニツキーの乱」の概要を参照ください。

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