ジョーウチ・ヴォーディの戦いとは? わかりやすく解説

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ジョーウチ・ヴォーディの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/28 14:32 UTC 版)

ジョーウチ・ヴォーディの戦い

戦争フメリニツキーの乱
年月日1648年4月29日から5月16日
場所ジョーウチ・ヴォーディウクライナ
結果:コサック・タタール同盟軍側の勝利
交戦勢力
 ザポロージャ・コサック英語版
 クリミア・ハン国
 ポーランド・リトアニア共和国
指導者・指揮官
ボフダン・フメリニツキー
トハイ・ベイ
ステファン・ポトツキ英語版
en:Stefan Czarniecki

ジョーウチ・ヴォーディの戦いウクライナ語: Битва під Жовтими Водамиポーランド語: Bitwa pod Żółtymi Wodami )は、1648年4月29日から5月16日にかけて、ウクライナジョーウチ・ヴォーディ周辺で、ボフダン・フメリニツキー率いるザポロージャ・コサック英語版クリミア・ハン国同盟軍と、ポーランド・リトアニア共和国政府軍との間に行われた合戦である。

前史

1648年の始め、ボフダン・フメリニツキーが軍勢を集めて反乱の準備をしていることを知ったポーランド・リトアニア共和国政府は、ミコワイ・ポトツキマルチン・カリノフスキウクライナ語版の率いる在ウクライナ政府軍にフメリニツキーのコサック軍を鎮圧するよう命じた。しかし、政府軍は寒さのために1648年の春まで進攻できず、その隙にフメリニツキーはウクライナの南方の隣国であったクリミア・ハン国と同盟を結び、クリミア・タタール人からの援軍の約定を取りつけた。

戦闘の経過

1648年4月、政府軍の司令官達は貴族の諸部隊の到着を待つためにコールスニ町辺りに本陣を据え、ミコワイ・ポトツキの子息、ステファン・ポトツキ英語版が率いる1万人余りの先勢をフメリニツキーの根拠地へ派遣した。先勢は、4月29日にジョーウチ川ドイツ語版ウクライナ語: Жовті Води - : Zhovti river[1])の辺りでフメリニツキーの8千人のコサックと1千5百人のタタール人の同盟軍と衝突した。

コサック・タタール同盟軍が優勢であったため、政府軍の先勢は速やかに陣地を要塞化し、そこに籠城して和平交渉を望んだ。しかし、交渉中に先勢にいた政府側の1千人余りの登録コサックは、同盟軍にいた同胞のコサックへ寝返り、交渉は中断してしまった。

5月15日の夜、先勢はコサックの軍の包囲を突破して脱出しようと試みたが、翌日にクニャージ・バイラークィという谷でコサック・タタール同盟軍に包囲され、コサックの鉄砲隊と砲兵隊の射撃によって壊滅した。

結果

戦いの最中に政府軍の大将ステファン・ポトツキは討ち死にした。捕虜となったウクライナ系の政府側の軍人はフメリニツキーに登用されたが、その他の捕虜はタタール人の獲物となり、奴隷としてクリミア・ハン国へ送られた。

影響

フメリニツキーの乱における初めての戦いでもあり、合戦は同盟軍の勝利に終わり、反乱の拡大を齎した。

脚注

  1. ^ 英語で: Zhovti Vodyと呼ぶ場合、川の名前ではなく地名の方を指すというように使い分けている。

参考文献

関連項目

外部リンク


ジョーウチ・ヴォーディの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)

フメリニツキーの乱」の記事における「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の解説

詳細は「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」を参照 フメリニツキーコサック集めて反乱準備をしていると知ったポーランド王国政府は、ウクライナ駐留するミコワイ・ポトツキとマルチン・カリノフスキが率い官軍コサック鎮圧すように命じた官軍1648年来春まで進攻できなかったので、フメリニツキーはその隙に南方隣国であったクリミア・ハン国同盟を結び、クリミア・タタール人ウクライナ・コサック援軍を出すことを約束したそのかわり交渉であったフメリニツキー長男ティーミシュ(ウクライナ語版)は、人質としてタタールのもとへ留め置かれた。1648年4月官軍司令官たちは、貴族の諸部隊到着を待つためにコールスニ辺り本陣据えポトツキの子息が率い1万余り先陣フメリニツキー根拠地派遣したその先陣は、4月29日にジョーウチ川(ドイツ語版)(ウクライナ語: Жовті Води - 英: Zhovti river)の辺りフメリニツキー麾下の8千人コサックトハイ・ベイ麾下の1千5百人タタール人からなる同盟軍衝突した。コサック・タタール同盟軍優勢であったため、官軍先陣即席築いた砦で立て籠もり和平交渉望んだ。しかし、先陣にいた政府側の1千人余り登録コサック交渉中に指揮官のイヴァン・バラバーシュ(ウクライナ語版)らを殺害してフメリニツキーコサック寝返ったため、交渉決裂した5月15日の夜、先陣コサックの軍の包囲突破によって脱出しようとしたが、クニャージ・バイラークィでコサック鉄砲隊砲兵隊射撃遭って破滅した捕虜となったウクライナ系貴族フメリニツキー登用されその他の捕虜タタール人獲物となった1648年 コサック(左)とタタール(右)の合流 ジョーウチ・ヴォーディの戦い

※この「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」の解説は、「フメリニツキーの乱」の解説の一部です。
「ジョーウチ・ヴォーディの戦い」を含む「フメリニツキーの乱」の記事については、「フメリニツキーの乱」の概要を参照ください。

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