対コサック戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/11 14:54 UTC 版)
「ステファン・チャルニェツキ」の記事における「対コサック戦争」の解説
その後の数年間はIllńceに住み、多くの人々が敵意を持っていた南東部国境で軍務をつづけた。1644年、コニェツポルスキの部下としてオフマーチウの戦い(英語版)に参戦、トハイ・ベイ率いるタタール軍に大勝した。コニェツポルスキの軍勢にはプウコヴニク(英語版)(波: pułkownik; 大佐)が7人いたが、チャルニェツキはその1人として騎兵突撃で戦闘に決着をつけ、名声を大いに高めた。同年には自分の軽騎兵部隊を持つレギメンタシュ(英語版)(regimentarz)になったが、フサリアではポルチュニクのままとなった。 続くフメリニツキーの乱にも参戦、1648年5月16日のジョーウチ・ヴォーディの戦いで多くのポーランド貴族と同じくボフダン・フメリニツキーの捕虜になったが、すぐに身代金が支払われて解放された。その後はコダック要塞(英語版)の守備についたが、要塞が9月26日に降伏したことでチャルニェツキは再び捕虜になり、ズボーリウ条約(英語版)が締結された後の1649年秋に解放された。以降大ヘトマンミコワイ・ポトツキのフサリアホロンギェフ(英語版)のポルチュニク、ポトツキの部下として軍事裁判官を務めるなどした後、新王ヤン2世カジミェシュに謁見した。1651年にはベレステーチコの戦い(英語版)とビーラ・ツェールクヴァの戦い(英語版)に参加した。チャルニェツキはサンドミェシュ(英語版)のホロンジィ(英語版)(旗手)に叙され、1652年1月にはセイムへの軍人代表に選出された。ナギェルスキによると、チャルニェツキはセイムから戻ってくるとき、バティーフの戦い(英語版)におけるポーランド人捕虜の虐殺(英語版)を目撃し、以降共和国の敵との妥協が難しいと考えるようになったという。一方、ポトホロデツキは歴史家のヴォイチェフ・ヤツェク・ドゥウゴウェンツキ(Wojciech Jacek Długołęcki)がチャルニェツキによる目撃を疑問視していることを挙げ、彼がバティーフにいた確固とした証拠はないと結論付けた。いずれにしても、虐殺は両軍の敵意と憎しみを増す結果になり、チャルニェツキはバティーフの戦い直後に書いた手紙でもし十分な軍事力があったら、ほとんどのルーシ人を生かさないだろうと述べた。 同1652年、チャルニェツキはヤン2世から領土とオボジヌィ(波: oboźny; 補給係)の職を授けられた。1653年、部隊を率いてウクライナのコサック領を荒らしまわったが、部隊自体も大きく消耗した。この戦役において、チャルニェツキは Monastyryska で負傷した。1654年にも制圧戦を続け、1655年1月にはオフマーチウの戦い(英語版)に参戦した。1655年5月、チャルニェツキはヤン2世によってウクライナからワルシャワに呼び戻され、その経験を買われて対スウェーデン戦争の作戦会議に参加した。この時点でチャルニェツキの名声は大きく、セイムはたびたびウクライナ奪回の功績についてチャルニェツキに感謝する動議を議決、当時一時的に共和国と同盟していたオスマン帝国にすら尊敬された。1655年5月14日、キエフ城主に任命されたことでポーランド上院の一員になった。
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