バティーフの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「バティーフの戦い」の解説
詳細は「バティーフの戦い」を参照 ビーラ・ツェールクヴァ条約の締結によってポーランド側もコサック側も必要としていた短い休戦になったが、双方ともその条約に従うつもりはなかった。1652年春に召集されたポーランド・リトアニア共和国の国会が条約の認可を却下したことを名目に、フメリニツキーは4月にコサックの長官たちに新たな戦争のために準備をするようにと命令した。その戦争のきっかけになったのは、コサックによるモルドバ公国への出兵であった。条約上フメリニツキーは独自の外交を行わないとされていたため、他国への出兵を条約違反とみなしたポーランド側は、コサック軍を止めるべくマルチン・カリノフスキが率いる1万2千の騎兵と8千人の歩兵を派遣した。騎兵の半分は「羽のユサール」と呼ばれるポーランドの選良の重騎兵と、歩兵の半分はエリートのドイツ傭兵隊から編制されていた。ポーランド軍は南下してバティーフ山の麓とラディージン町の間に陣を取ったが、敵軍の到来を予期していなかったため、陣地の防備を怠った。しかし、6月1日、コサック・タタール同盟軍は突然に現れ、油断していたポーランド軍を攻撃して本陣まで撤退させた。翌朝、コサックとタタールは駕の中の鳥となったポーランド軍に総攻撃を懸け、カリノフスキを初めとする多くの司令官を討ち取り、1万余りの敵兵を殺害した。そのなかでドイツ傭兵隊も「羽のユサール」もほぼ全滅した。3千人のポーランドの兵士は捕らえられ、ベレステーチコの敗戦の復讐として斬首された。 1652年 バティーフの戦いの記念硬貨 ポーランド捕虜の成敗 1653年
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