バティニョール派の形成
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「第1回印象派展」の記事における「バティニョール派の形成」の解説
のちに「印象派」と呼ばれる画家たちは、それぞれ小さなグループを形成していた。クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンはシャルル・シュイスの開いた画塾、アカデミー・シュイスで学び友情関係で結ばれた。モネはシャルル・グレールの画塾にも顔を出し、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーらと交友を深めた。この2つの小さなグループはモネが仲立ちとなって、交友を結んでいった。その後、画家たちは、モンマルトルのバティニョール街(現、クリシー街)にあったカフェ・ゲルボアに集まり、絵画について議論をするようになった。 エドゥアール・マネは、1863年のサロン(官展)に落選した『草上の昼食』が大スキャンダルとなった一方、彼の周囲には若い芸術家たちが集まるようになり、1866年頃からカフェ・ゲルボアで週に1度の会合をもつようになった。エミール・ゾラらの文学者、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレといった批評家、画家ではモネ、バジール、ドガ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、彫刻家で詩人のザカリー・アストリュク、版画家のフェリックス・ブラックモン や マルスラン・デブータン、写真家のナダールといった人びとが、新しい芸術を生み出すべく、議論を重ねた。彼らはカフェのある街路にちなみ「バティニョール派(フランス語版)」、または中心人物の名にちなんで「マネ派」と呼ばれた。
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バティニョール派の形成(1860年代後半)
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「エドゥアール・マネ」の記事における「バティニョール派の形成(1860年代後半)」の解説
マネは、1866年、サン=ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに住居を移し、死去までこの通りに住んだ。 マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギユメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私はこれほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した。 1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人びとの助けがあるので成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、次のように書いている。 今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「真摯な作品を見に来てくれ」と言う。この真摯さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまうのである。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。[中略]彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたに過ぎない。 — マネ、趣意書 ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、次のように書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった。 いかなる対象を前にしても画家[マネ]は対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円に過ぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合なのだ。[中略]多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。[中略]複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆捌きによって色調の美しい煌きを創り出せるか否かということだけだ。 — エミール・ゾラ、「マネ論」 マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その画中の机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている。 1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾ(英語版)と知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした。 エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている。 マネは、1867年にフランスが擁立していたメキシコ皇帝マクシミリアンが銃殺された事件を題材に、『皇帝マキシミリアンの処刑』の油彩画3点と石版画1点を制作していたが、1869年1月、内務省から、検閲により絵画がサロンに受け入れられないこと、石版画の印刷が禁止されることを通知された。ゾラは、『ラ・トリビューヌ』紙に、この検閲を批判する記事を載せた。 1869年のサロンには、『バルコニー』と『アトリエでの昼食』が入選した。『バルコニー』には、ベルト・モリゾがモデルとして登場している。左手前を見つめるモリゾを含め、3人の人物はぎこちなく、視線は虚ろで、かみ合っていない。モリゾは、サロン会場で見たこの作品について、「マネの作品は、いつものことですが、熟していない硬い果実のような印象を醸し出しています……『バルコニー』に描かれた私は醜いというよりも奇妙です。」と書いている。批評家たちは、登場人物が何を考えているのか不明瞭で、静物画のようだと言ってけなした。しかし、現在では、近代の人間の中に存在する無関心を描き出すことこそがマネの本質であったと評されている。 マネは、機知に富んだ言葉で相手をやっつけようとするところがあり、1870年には、エドモン・デュランティと口論の末、剣で決闘をするという出来事もあった。2人は、大きな怪我はなく、その日の夜には和解した。 第二帝政下最後のサロンとなった1870年のサロンには、『エヴァ・ゴンザレスの肖像』を提出したが、保守派の批評家アルベール・ヴォルフ(英語版)は、「油彩で描かれた醜い平坦なカリカチュア」、「注目を引くためだけのお粗末な絵」とこき下ろした。他方、テオドール・デュレやエドモン・デュランティは、マネを擁護する論評を書いた。 『笛を吹く少年』1866年。油彩、キャンバス、160.5 × 97 cm。オルセー美術館。1866年サロン落選。 『ロンシャンの競馬場(英語版)』1866年。油彩、キャンバス、44 × 84.2 cm。シカゴ美術館。 『1867年のパリ万国博覧会の光景』1867年。油彩、キャンバス、108 × 196 cm。オスロ国立美術館。 『エミール・ゾラの肖像』1868年。油彩、キャンバス、146 × 114 cm。オルセー美術館。1868年サロン入選。 『皇帝マキシミリアンの処刑』1868年。油彩、キャンバス、252 × 305 cm。マンハイム市立美術館。 『アトリエでの昼食(英語版)』1868年。油彩、キャンバス、118 × 153.9 cm。ノイエ・ピナコテーク。1869年サロン入選。 『バルコニー』1868-69年。油彩、キャンバス、170 × 125 cm。オルセー美術館。1869年サロン入選。 『フォークストンの汽船の出航(フランス語版)』1869年。油彩、キャンバス、63 × 73.5 cm。フィラデルフィア美術館。 『エヴァ・ゴンザレスの肖像』1870年。油彩、キャンバス、191.1 × 133.4 cm。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)。1870年サロン入選。
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