ジュヴァーネツィの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「ジュヴァーネツィの戦い」の解説
詳細は「ジュヴァーネツィの戦い」を参照 バティーフの戦いで勝利したフメリニツキーは、ポーランド・リトアニア共和国政府にズボーリウ条約の条々に基づいて和平を申し入れた。しかし、惨敗を喫したポーランドの政治家と軍人は、冷静になるどころか熱狂して申し入れを感情的に断り、新たに4万人の兵士を動員した。1653年3月、ステファン・チャルニェツキが率いるポーランド軍の先陣は「生殖できぬほどウクライナ人を一人も残すな」という標語のもとコサック支配下のブーラツラウ県へ乱入し、7月上旬にポーランド国王が指揮する軍勢が西ウクライナのリヴィウ町の周辺に集結した。それに対してフメリニツキーは、イヴァン・ボフーンの連隊を派遣して敵軍の先陣を撃破し、クリミアのイスリャム3世ゲライと結んで約4万人の兵力を呼集した。 10月上旬、4万からなる国王軍はドニステル川の中流に位置するジュヴァーネツィ町近郊に陣取った。国王は、モルドバ公国・ワラキア公国・トランシルヴァニア公国からの援軍を待っていたが、コサック・タタール同盟軍はその援軍を途中で蹴散らし、10月末に国王軍の本陣を包囲した。その折に寒気が始まったため、両軍は寒さと食料不足で苦悩し、決戦を挑む力がなかった。そこで、12月5日にクリミアのハンは、1649年と同様にズボーリウ条約の復帰を国王に求め、国王はそれを受け入れた。しかし、今回の平和条約は、両国の君主が互いに面会しなかったことと、代理人を通して成文ではなく口頭協定を交わしたことがために、単なる休戦用の虚実の宣言にすぎなかった。それにもかかわらず、参戦者は皆納得していた。なぜなら、ポーランド側は国際法律上でズボーリウ条約の復帰はなかったものと判断し、タタール側はコサックとポーランドの勢力的バランスを管理して後者を朝貢国にし、コサック側は経済力・軍力の回復と同盟者の変更のための時間を得たからであった。
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