ズボーリウ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「ズボーリウ条約」の解説
詳細は「ズボーリウ条約」を参照 そのような状況の中で、8月17日、フメリニツキーを除いてポーランド王とクリミアのハーンの間では秘密な平和交渉が始まった。国王は「チンギス・カンの子孫の朝廷」であるハーンに朝貢すること、ならびに包囲解除の代償金として40万銀銭を支払うことを約束した。クリミア・ハン国は伝統的にウクライナを奴隷狩りの地域にしていたため、ポーランド・リトアニア共和国の弱化によるウクライナ・コサックの強化を望んでいなかった。そのため、それまで同盟関係であったフメリニツキーを裏切ってポーランド・リトアニア共和国の提議を受け容れて平和条約を締結した。フメリニツキーはタタールの行動を知ると、やむなく国王に使者を遣わして、和平条約を結ぶためのコサックの要求を伝えた。その要求では、ポーランド・リトアニア共和国内のコサックによる自治領域は中央・北東ウクライナのキエフ県・チェルニーヒウ県・ブーラツラウ県ならびに東ヴォルィーニ地方と東ポジーリャ地方までに拡大すること、コサックの自治領域での行政はウクライナ系の貴族にのみ任命すること、在ウクライナのユダヤ人とイエズス会の会員全員を追放すること、国軍としてコサックの4万人を公認すること、戦争で参加したコサックと町人・農民の反乱者を大赦することであった。8月19日にコサックの要求に基づいて国王とフメリニツキーはズボーリウ条約を締結し、8月23日にズバーラジュ城の包囲が解かれた。数日後、国王はワルシャワへ、フメリニツキーはキエフへ帰陣した。タタールはクリミアへ戻りながら、ウクライナの町村を荒らして奴隷狩りを行った。
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