ビーラ・ツェールクヴァ条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 04:46 UTC 版)
「フメリニツキーの乱」の記事における「ビーラ・ツェールクヴァ条約」の解説
詳細は「ビーラ・ツェールクヴァ条約」を参照 ベレステーチコの戦い後、国王は首都に帰り、中部ウクライナの鎮圧を武断派のミコワイ・ポトツキとヤヌシュ・ラジヴィウに任せた。しかし、両人の軍勢は、南下すればするほど、食料不足と疫病、さらにウクライナの住人の抵抗と庶民からなる遊撃隊に悩まされていた。ベレステーチコの戦いで多くの犠牲者を出したウクライナ人は官軍を怨み、戦争は社会階級の対立から始まったポーランド・リトアニア共和国の内戦から次第に民族対立を中心としたポーランド対ウクライナ戦争に変更していった。 そんな中、7月17日にフメリニツキーは、タタールに解放されてビーラ・ツェールクヴァ町に到着し、8月中旬まで町の辺りで堅固な砦を築城して2万5千人のコサックと6千人のタタールを集めた。ポーランド勢は、砦の攻撃に失敗したことと、現地民によって補給が断たれたことによって危殆に瀕し、9月10日に和平交渉をコサックに提案して9月28日にビーラ・ツェールクヴァ条約を締結した。その条約は、前のズボーリウ条約で公認されたコサックの自治領域を中部ウクライナのキエフ県まで限定し、コサック軍の縮小とクリミア・ハン国との同盟の撤回を求め、フメリニツキーが外交を行うことを禁じていた。また、ポーランド系貴族・ユダヤ人・イエズス会会員がウクライナに戻ることが許され、彼らが戦前まで有していた土地・財産の返却が義務づけられた。
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