ベレステーチコの戦い
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「フメリニツキーの乱」の記事における「ベレステーチコの戦い」の解説
詳細は「ベレステーチコの戦い」を参照 国王とフメリニツキーの間でズボーリウ条約が結ばれたにもかかわらず、1650年の前半はポーランド・リトアニア共和国の国会で条約認可をめぐって穏健派と武断派が対立していた。同年の夏、タタールの捕虜から1648年のコールスニの戦いで負けたミコワイ・ポトツキ司令官が戻って影響力を回復し、武断派に加担して「コサックの血で土が赤くなるまで」の新たな戦争の必要性を強調するようになった。結局、1650年末には武断派が勝利を収めて条約を認可せず、ポーランド・リトアニア共和国もコサックのウクライナも次の軍事衝突のために軍勢を動員し始めた。前者は1651年4月までに4万人の国軍と、8万人の大・小貴族部隊を集め、後者は同年5月までに4万人からなるプロのコサックの諸連隊と、6万人の町人・農民からなる志願兵を呼集した。それに、コサックの援軍としてイスリャム3世ゲライが自ら引率した3万人のタタール騎兵隊も加わった。両軍の人数は20万人を超え、今後の合戦はヨーロッパ戦争史上で最大の合戦の一つになると見込まれた。 1651年 国王の騎兵によるコサック銃士への攻撃 ヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイ イヴァン・ボフーン 1651年6月中旬に国王軍とコサック・タタール同盟軍は西ウクライナのヴォルィーニ地方で、ベレステーチコ町の辺りの低地で対陣した。陣地は7km から8kmまで広がっていて両側から湿地と森林で囲まれていた。6月28日に合戦の火蓋が切られ、両軍の小隊による小競り合いが行われた。翌日、タタールの騎兵が周辺の高地を占領した一方、コサックの歩兵は横側から国王の軍勢を押し付け、約7千人の敵兵を討ち取った。コサック・タタール同盟軍は優勢に見えたが、6月30日に戦況が一変した。国王の歩兵がヤレーマ・ヴィシュネヴェーツィクィイの騎兵とともにコサックの歩兵をコサックの本陣まで撤退させ、国王の砲兵は高地に位置するタタールの本陣へ発砲を開始した。そんな中、タタールの指導者イスリャム3世ゲライは足傷を負い、カルハ(ウクライナ語版)のクルム・ゲライやトハイ・ベイら数人のタタールの重臣が砲弾に斃れた。砲撃によって多数の死者を出したタタールは、戦場から急速に後退してコサックの陣地の左側を裸にした。フメリニツキーはタタールを引き止めようとイスリャム3世ゲライの所へ向かったが、タタールは戦闘の続行を断ってフメリニツキーを虜にした。 残されたコサック軍は、タタールの行動によって同盟者と総司令官を失って窮地に陥り、本陣を湿地と諸川の合流地帯へ移動させ、それを要塞化して篭城することを決めた。それに対して国王軍はコサックの本陣を取り巻いて、十日間連続でそこへ発砲し続けた。7月10日の夜、フメリニツキーの不在でコサックはイヴァン・ボフーンを臨時の棟梁に任命し、湿地を通って本陣から密かに脱出し始めた。2万人のコサック騎兵隊と砲兵隊の一部が脱出に成功したものの、町人・農民を中心とした志願兵はコサックに捨てられると恐れてパニックになり、湿地内で脱出用の道路が壊されて多数の志願兵が沈没した。それを察知した国王軍は、敵本陣に総攻撃を開始したが、300人の選れたコサックの殿軍で食い止められ、数時間をかけてそれを全滅させたにもかかわらず、コサック軍に致命的な打撃を与えることは出来なかった。こうして、合戦はポーランド・リトアニア共和国の大勝利で終わり、国王軍は3万枚の銀銭の軍事金、20のコサック軍旗と軍印、フメリニツキーの棟梁のしるしである戦棍を入手した。
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