ベレジナ川を巡る歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 23:18 UTC 版)
スウェーデン王カール12世は、ロシア皇帝ピョートル1世との大北方戦争においてロシア侵攻を決意し、1708年6月25日に大軍を率いてベレジナ川を渡ったが、ロシア側の焦土作戦と冬将軍により軍勢は弱体化し、翌年のポルタヴァの戦いでの大敗につながった。 ベレジナ川の名を有名にしたのは、ナポレオン戦争中の1812年ロシア戦役における「ベレジナの戦い(英語版)」である。ナポレオン1世率いる大陸軍は10月よりモスクワからの退却を始めたが、焦土作戦と極度の寒さで兵力の多数が脱落した。11月26日から11月29日にかけて、ベレジナ川にポンツーン橋を架けて渡河しようとした大陸軍にミハイル・クトゥーゾフ率いるロシア軍が襲いかかり、フランス軍に壊滅的な打撃を与えた。ベレジナは、フランス[要出典]および大陸軍に参加したスイスなどの各国にとって、災難や災厄の代名詞となった。 独ソ戦では、1944年夏の赤軍の大反攻(バグラチオン作戦)でドイツ国防軍は総崩れとなり、第4軍はベレジナ川を渡りミンスクへ退却する途中で包囲され、少数の部隊を残して殲滅された。
※この「ベレジナ川を巡る歴史」の解説は、「ベレジナ川」の解説の一部です。
「ベレジナ川を巡る歴史」を含む「ベレジナ川」の記事については、「ベレジナ川」の概要を参照ください。
- ベレジナ川を巡る歴史のページへのリンク