対ローマ戦争、西方外交
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/12 18:01 UTC 版)
「バハラーム2世」の記事における「対ローマ戦争、西方外交」の解説
282年、ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・カルスがユーフラテス川を越えてメソポタミアに復讐にやってきた。バハラーム2世は東方アフガニスタンの反乱に処するのが手一杯で、これに対処することが出来なかった。メソポタミア一帯は破壊・略奪され、セレウキアやクテシフォンもローマ軍によって占拠された。しかし、幸運にもカルスは落雷によって事故死(暗殺説もある)。 これによってローマは軍を引き、カルスの息子のヌメリアヌスは和を結んだ。しかし286年、ディオクレティアヌス帝はペルシア戦争を開始する。ペルシアの領域に行軍し、アルメニアの王子ティリダテス(en:Tiridates III of Armenia)がペルシアに反旗を翻したのを支援するためであった。幾度か戦線を交えた後、アルメニアは自由化され、ティリダテスは独立を宣言した。 ティリダテスは彼の治世中、更なる成功を収めた。ペルシアの2個軍隊を会戦で破り、重要な守備拠点を抜いた。これにより疑いようのないアルメニアの支配者となり、ペルシアによって隔たれていたアルメニアの国境も渡り、事実上のペルシア領で象徴的な勝利を収めた。 東方情勢の混迷もあって、バハラーム2世はローマ側に非常に有利な休戦協定を結んだ。この協定は軍部の大きな反感を買い、特にアルメニアを死守したにもかかわらずローマ側に西部アルメニアを割譲させられることになったナルセを激怒させた。ナルセの勢力を削ぐために、あえてローマ側に有利な講和条約を結んだとも考えられなくもない。
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