反撃の失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:19 UTC 版)
「クンドゥーズの戦い (2015年)」の記事における「反撃の失敗」の解説
1週間ほど戦闘が続いた後、5月7日に政府軍は反撃を開始し、ゴールタパ地区に集結しているターリバーン軍を攻撃した。ターリバーン軍の兵力は推定2000人で、ISILやウズベキスタン・イスラム運動の兵士も参加していた。5月後半までに3000人のアフガニスタン軍が到着し、クンドゥーズ市に2キロまで迫っていたターリバーン軍を15キロメートルまで押し戻した。この頃、クンドゥーズ市にある国境なき医師団の外傷センターでは紛争に巻き込まれて負傷した患者の割合が1割を越えて対前年度比で2倍になっていた。来院患者によると「州都に通じる道の一部に地雷が敷設されていて、大きく回り道をしないと市内に入れ」ず、市外に出るのも難しいと言う。また国境なき医師団の責任者によると、州内では「政府軍と反政府勢力の双方の軍事作戦による混乱が1年以上続いて」おり「地域の民兵が状況によって手助けする陣営を変え」て「紛争が慢性化」していると言う。しかしアフガニスタン政府は軍閥の危険性を承知の上でターリバーンの兵力増大に伴う政府軍の損害増大や政府軍の多地域展開能力不足を理由に、ミール・アラムなどの民兵指導者に200ドル/人の月給や武器を提供してターリバーンと戦うように懇願し、警察組織に組み込もうとさえした。 6月、ターリバーンはクンドゥーズ市の南西7キロメートルにあるチャールダラ郡に兵を送り、6月21日に郡を完全に掌握し、警官を捕虜にしたと発表した。一方、クンドゥーズ郡警察は戦闘は続いており、ターリバーンは半分を掌握したにすぎず、警官は誰も捕まっていないと反論した。その頃チャールダラ郡では「自宅に爆弾が命中」したり「モスクで勉強」中に砲撃を受け、腹部・四肢・頭部などに傷や重傷を負った民間人が急増していた。6月中にターリバーンは進撃して、クンドゥーズ市の外を掌握した 。ハーナーバード郡ではAqtash地域を掌握し数百人の手勢を持つ政府側の有力民兵指揮官のムハンマド・オマル・パフサパラン(Pakhsa Paran)が、2年間ハーナーバード郡を堅守してきたが損害が多く一発33ドルの迫撃砲の砲弾を買うお金も無い。クンドゥーズ市に駐屯する第209軍団第2旅団や警察に助力を頼んだが無視されたので撤退したと言う。実はこの頃カブールでは第3回の大統領選挙から1年経ってもまだ混乱が続いており、6月22日に最後まで空席だった国防大臣の審議がアフガニスタン下院でようやく始まったが、ターリバーンに襲撃され銃撃戦になった。アメリカ軍の航空戦力も使われないままである。 7月、政府軍は殺気立っており、国境なき医師団の病院で威嚇射撃をして入院していた容疑者を手荒に拘束しようとした。一方、ターリバーンの「影の州知事」の主張によると、州内を3つの地域に分けて地域ごとに裁判所を設置して、公正な裁判により民衆の支持を集めて、民兵(アルバキ)の検問所を破壊し、もしくは勧誘・教導委員会(Invitation and Guidance commission)により投降させて地域を解放していると言う。例えばマザーリシャリーフのあるターリバーンは道でバスを停めて政府の職員や軍人を探し、仕事を辞めるように命じている。そして民族は関係なくムスリムは皆兄弟であり国民であると諭している。またターリバーンの主張によると周辺の郡を襲えば、大量の車両や武器弾薬が手に入るようである。例えばイマーム・サーヒブ郡を占領した際には人員輸送車やフォード・レンジャーなど233台が手に入ったと言う。また8月にターリバーンが公開したビデオには、ハンヴィーやピックアップトラックなど10台ほどの自動車をはじめ、25台ほどのバイクに乗ったターリバーンの機械化部隊が映っている。 ターリバンの主張によると9月前半は州の端の方にあるカライ・ザール郡やハーナーバード郡で民兵(アルバキ)と戦闘を続けていたが、9月後半になるとクンドゥーズ市近郊で警察や兵士と戦闘するようになったと言う。
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