反撃の命令と遅れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 06:11 UTC 版)
「レマーゲンの戦い」の記事における「反撃の命令と遅れ」の解説
ドイツ軍は橋を破壊し、ライン川東岸のアメリカ軍を孤立させることに固執していた。第53軍団の司令官であるエドウィン・ロートキルヒ騎兵大将は3月6日に捕らえられており、3月9日、彼の上司である第7軍司令官ハンス・フェルバー将軍は、フリッツ・バイエルライン中将を彼の後任に任命した。バイエルラインは、かつて、北アフリカ戦線でエルヴィン・ロンメル元帥の参謀を務め、バルジの戦いでは装甲教導師団の司令官を勤めた人物であった。 ドイツ軍の戦車学校から引き抜かれた優秀な若い兵士たちが集まった装甲教導師団は、国防軍で最も恐れられた装甲師団といわれ、バイエルラインはその迅速さと効率性を見いだしていた。モーデル元帥はバイエルラインに24時間以内に計画を立てるように指示した。モーデルはバイエルラインに、ヴェント・フォン・ヴィーテルスハイム将軍が率いる4,000人の兵、戦車25両、砲兵18両の第11装甲師団から約600人、戦車15両、砲兵12両の第9装甲師団、戦車5両の第106装甲旅団「フェルトヘルンハレ」、そして装甲教導師団から1個連隊(約300人、戦車15両)の指揮権を与えた。だが、第11装甲師団は北へ100km離れたデュッセルドルフにあり、燃料不足で部隊の移動は難しく、レマーゲンへのルートは渋滞しており、アメリカ軍機による攻撃を受ける可能性があった。バイエルラインはすべての部隊の到着を待って、総力をあげて攻撃しようと考えていたが、モーデルは彼の作戦に反対し、手持ちの部隊で直ちに反撃することを要求していた。 3月9日、第67軍団はアメリカ軍の進行を食い止めようとしたが、戦力はあまりにも弱く攻撃は断続的であった。しばらくして第11装甲師団が到着したが、部隊の車両は頻繁に故障し効果的な戦果は挙げられなかった:61。
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