反撃と再度の専制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 05:57 UTC 版)
「リチャード2世 (イングランド王)」の記事における「反撃と再度の専制」の解説
1383年のフランドル遠征はあったが、リチャード2世は百年戦争に乗り気でなく、フランスとの和平を考え交渉を呼びかけていた。1381年5月の時点からリチャード2世はフランスと接触を開始、フランス北部の都市ルーランジャンで交渉を重ねて1384年1月に休戦協定を結んだ。それからも休戦を延長しつつ話し合いを続け、1389年に3年間の休戦を決め、1392年にアミアンでリチャード2世とフランス王シャルル6世と会見、1396年3月11日にフランスの首都パリで1398年から1426年まで28年間の休戦協定を発表した。同年に内容をより具体的に取り決め、11月にシャルル6世の娘イザベラ・オブ・ヴァロワとリチャード2世の結婚が実現した。 しかし、フランスの和睦はイングランドでは評判が悪く、イザベラが幼いため世継ぎを生む可能性が大分先になってしまうこと、フランス侵攻の足掛かりにしていた北西部の港町ブレストをフランスへ明け渡したことなどが非難された。好戦派だったグロスター公・アランデル伯も和睦に不満を抱き、イングランドは再び不穏な空気に包まれた。リチャード2世はそうした情勢をよそに1394年から1395年までアイルランドへ遠征、現地のイングランド人入植者と先住民のゲール人部族の対立を収め、両者の不満をなだめた。 1397年7月、リチャード2世は訴追派貴族3名(ノッティンガム伯・ボリングブルックを除く)をロンドンの宴席へ招待したが、拒否されたことを口実に3人を逮捕、9月の議会で次々と処罰した。グロスター公はフランスのカレーへ監禁された後に暗殺、アランデル伯は死刑、ウォリック伯はマン島へ追放された。議会はリチャード2世がチェシャーから招集した軍隊で威圧され、貴族たちはリチャード2世の復讐に恐怖と不信感を抱いた。 一方、訴追派貴族の分断と自らの基盤を再構築するため、ランカスター公父子とノッティンガム伯らを懐柔し、ボリングブルックは新たにヘレフォード公、ノッティンガム伯はノーフォーク公に叙爵され、ランカスター公も同年に4人の庶子でボリングブルックの異母弟妹に当たる子供(ジョン・ヘンリー・トマス・ジョウン)が嫡出子に格上げされたためリチャード2世に肩入れするようになっていった。寵臣の補充も行い、自分の2人の異父兄であるケント伯トマス・ホランド(英語版)とハンティンドン伯ジョン・ホランドを登用、ケント伯が死亡すると同名の息子トマス・ホランドをサリー公、ハンティンドン伯をエクセター公に叙爵して厚遇したが、これは専制の再来を予感させた。 翌1398年1月に開会した議会でリチャード2世は軍事力を背景に議会へ圧力をかけ、開催地をロンドンではなく国王派の地盤に近いシュルーズベリーに変更させた上、非情議会の決定を全て無効と宣言して議会を統制下に置こうとした。さらに、前年に優遇した訴追派貴族の残り2名にも処罰を与え、ボリングブルックがノーフォーク公から「国王が自分達を暗殺しようとしている」と告げられたと議会で言いだし、反発したノーフォーク公と対立して互いに反逆罪で訴え決闘寸前まで至った所で中止を命令、2人とも国外追放とした(ノーフォーク公は終身、ボリングブルックは6年)。スコットランドと国境を接するイングランド北部にも介入し、ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーと息子のホットスパーが手にしていた辺境守護職を取り上げ、北部貴族も敵に回した。
※この「反撃と再度の専制」の解説は、「リチャード2世 (イングランド王)」の解説の一部です。
「反撃と再度の専制」を含む「リチャード2世 (イングランド王)」の記事については、「リチャード2世 (イングランド王)」の概要を参照ください。
- 反撃と再度の専制のページへのリンク