反撃と遅延
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
バーゴインはスキーンスボロでロイヤリストのフィリップ・スキーンの家に入り、その間に軍隊の一部を再編成し次の作戦を検討した。イギリス軍の勝利を公表する為にその概要を手紙に認めた。この報せがヨーロッパ各国の首都に届いた時、国王ジョージ3世は満足に思い、フランスのヴェルジェンヌ伯は逆で、フランスが戦争に参入するという以前の提案は事実上潰れた。イギリスの外交官はフランスやスペインに対する圧力を増し、アメリカの船舶に対してその港を閉鎖するよう要求した。この要求が拒絶されたとき大国の間の緊張関係を著しく増すことになった。この報せは大陸会議とアメリカの大衆には厳しく受け止められ、特にセントクレアとスカイラーが賄賂を受け取っていたという中傷になった。 7月10日、バーゴインは次の一連の行動について命令を発した。軍隊の大半はスキーンスボロからエドワード砦までアン砦を経て粗い道路を進み、重い大砲はジョージ湖を船でエドワード砦まで運ぶことにした。リーデゼルの部隊は道路をキャッスルトンまで戻って、コネチカット川を目指していることを示唆する陽動行動をさせた。バーゴインは陸上をアン砦を経て動かす決断をしたが、これは守備側が容易に道を塞ぐことができると予知していたこの遠征隊の作戦に関する解説と矛盾していた。その決断は2つの要因によって動かされていたように見える。1つはジョージ湖を経て水上を進む場合に退行する動きが必要であり、撤退と認識されうると考えたこと、もう一つはバーゴインが道を建設していかねばならないことで、フィリップ・スキーンの資産の利益に繋がる事情があり、その影響力があったことだった。 スカイラーは、タイコンデロガ砦が陥落したという報せをオールバニで受け取り、直ぐに約700名の正規兵と1,400名の民兵が守備隊として駐屯するエドワード砦に馬で向かった。スカイラーはバーゴインの行程を出来る限り困難なものにしてやろうと決断し、斧を武器として使った。敵軍の進路に大きな木を切り倒して置くことが、それを取り除くよりも簡単なことであった。そうすればバーゴイン軍の歩みが遅れ、兵士を疲れさせ、兵糧を使わせることになると考えた。7月11日にバーゴインはジャーメインに宛てて、エドワード砦に向かう道沿いで大陸軍が体系的に樹木を倒し、橋を壊し、流れを堰きとめていると不平を書き送った。スカイラーは、イギリス軍が地元から食糧を調達できないように焦土作戦も採用した。バーゴイン軍の動きが止まっていても、その斥候の動きは活発であり、スカイラーの作業部隊の何人かは攻撃を受けた。 スカイラーの戦術によってバーゴインは大砲や部隊を動かすために荒野に道を作って進むしかなかった。この作業にはおよそ2週間を要した。スキーンスボロを7月24日に出発し、7月29日にエドワード砦に到着した時は、スカイラーが既に砦を放棄させスティルウォーターに退いた後だった。バーゴインがスキーンスボロを出発する前に、五大湖地方からセントルーック・ド・ラ・コルヌとシャルル・ミシェル・デ・ラングレイドの指揮で約500名のインディアン(大半はオタワ族だが、フォックス族、ミシソーガ族、チッペワ族、オジブウェ族もおり、またイロコイ族の一員もいた)が合流していた。
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