本土防衛 1941–44
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「ヴァルター・エーザウ」の記事における「本土防衛 1941–44」の解説
エーザウは、Bf109 F–2のテスト飛行中にフランスで墜死したバルターザルの2度目の後任としてJG 2の指揮を引き継いだ。Bf 109F–2はスピットファイア Vと甲乙つけがたい性能を発揮したが、エーザウはE型と比べて武装が貧弱になったことを嫌いBf109 FよりもE型を好んで、補修部品が無くなり新型機に乗り換えねばならなくなるまでE-4型に搭乗し続けた。1941年7月4日の指揮官就任時にJG 2の部隊員の前で以下のような演説を行った。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの精神で、前任のヴィック少佐とバルタザール大尉が示した模範をなぞり、不断の準備と義務への献身が我々を更なる成功へと導くであろう。」 JG 2は英空軍機の攻撃から占領下フランスの標的を防衛する任務を負っていた。続く2年間にエーザウはJG 2を率いて英空軍との戦いに貢献した。8月10日にエーザウはJG 2での初の戦果としてスピットファイア機を1機、その次の2日間で更に4機のスピットファイア機を撃墜し、9月末までに2機のスピットファイア機を戦果に加えた。 JG 2はツェルベルス作戦においてドイツ空軍が実施した上空援護に参加した。2機の英第90飛行隊のボーイング B-17 Cが巡洋戦艦「シャルンホルスト」と「グナイゼナウ」を攻撃してきた。第二次世界大戦中でも最も高高度での迎撃の一つであるこの戦闘でJG 2/第I飛行隊の攻撃により1機のB-17が撃墜された。エーザウの88機目から92機目の戦果は全てスピットファイア機で、8月12日にカレーとダンジネス間で記録された。10月26日にエーザウは100機目の撃墜を記録した3人目のパイロットとなり、国防軍軍報で4度目の言及を受けた。 その後エーザウの経験と指導力の高さは前線の戦闘で失うには惜しいと判断され飛行停止となり地上勤務に回されたが任務によっては飛行することもあり、その中で最も有名なものの一つは1942年4月に行われたアウクスブルクを目標とした英空軍による珍しい昼間爆撃でG・T・ローデス(G. T. Rhodes)曹長(Warrant Officer)操縦の英第44飛行隊所属のアブロ ランカスター爆撃機を撃墜したことであった。これはエーザウの101機目の戦果であった。8月にJG 2の航空団本部飛行小隊は装備機をBf 109 FからFW 190 A–2へと改編した。 1942年遅くからJG 2は増加しつつある数多くのB-17やコンソリデーテッド B-24で編成されたアメリカ陸軍航空軍(USAAF)と対峙することとなった。 エーザウは1943年半ばまでに更に4機を撃墜し、30歳の誕生日の少し前にドイツ空軍幹部の一人の管理職に昇格させられ、1943年7月1日にブルターニュ戦闘航空兵指導官に任命された。11月12日に10月に戦死したハンス・フィリップの後を引き継いで第1戦闘航空団(JG 1)の戦闘航空団司令に就任した。エーザウの作戦飛行への参加は解禁され、JG 1を率いている間に14機の爆撃機を撃墜して対4発爆撃機迎撃の熟達者(Experten)となった。10月17日にダイヤモンド付空軍前線飛行章金章を、1944年1月10日にはドイツ十字章金章を授与された。 ドイツ空軍最高司令官のヘルマン・ゲーリングにとり目下の懸念は敵爆撃機編隊の流れに継続的な接敵を計れる戦闘機の数が不十分なのではないかということであった。それ故に1944年2月23日に第I戦闘機師団の指揮官ヨーゼフ・シュミット少将は、戦闘機の基地への帰還について新たな規則を制定した。戦闘機は自機が所属する基地に帰還するかわりに戦闘機用に用意された直近の基地へ補給のために着陸し、一旦着陸すれば部隊の同異にかかわらず同じ飛行場に着陸した先任パイロットの指揮下に入ることになった。この方式は戦闘機を敵爆撃機の帰投に間に合うように再度迎撃に送り出せることを意味していた。 翌日、第8空軍/第2爆撃師団のB-24がゴータを爆撃するとJG 1(エーザウ指揮)、JG 11とJG 3が迎撃に上げられた。強風のために爆撃機隊は前衛の護衛戦闘機を伴っていなかったためにJG 1の2コ飛行隊がゴータに到達する前に接敵した9機のB-24を撃墜した。第1爆撃師団のB-17爆撃機もシュヴァインフルトを爆撃した時点でその他の戦闘機部隊も迎撃し始め、最終的には西部戦線に配備されているドイツ空軍の昼間戦闘機部隊のほぼ全部が迎撃に参加した。このことにより自機が所属する基地以外に着陸するパイロットに混乱を引き起こし、シュミットの新たな管制方式が試されることとなった。エーザウは成功裏に率いられたこの手の2つの即席編成の編隊の一つを、もう一つをJG 26/第I飛行隊のボリス(Borris)大尉が指揮した。エーザウは1月から3月までに4機の戦闘機を戦果に追加し、合計撃墜数は117機となった。5月8日にリパブリック P-47戦闘機をハノーファー上空で撃墜し、これがエーザウの最後の戦果となった。
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