戦闘機隊指揮官
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5月22日の加藤建夫戦隊長の戦死 後は先任中隊長として戦隊長を補佐し続けた。1943年(昭和18年)2月12日、八木正巳戦隊長が、2月25日、明楽武世戦隊長が相次いで戦死した後、広瀬吉雄少佐の指揮の下、後に戦隊長となる宮辺英夫大尉らとともに部隊の中級指揮官として任務を遂行した。 1944年(昭和19年)1月、陸軍航空審査部に再び着任する。4月、1か月間スマトラ島パレンバンへ出向し、油田防空担当の第3航空軍第9飛行師団戦闘機隊にタ弾攻撃を伝習教育。その後は東京府福生飛行場で各種試作戦闘機や武装の審査を担当しながら防空戦闘にも出動した。鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行なうテストパイロットとしても従事し、B-29が偵察飛行に飛来した際、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機に搭乗して一緒に飛行するなど、多くの逸話を残した。黒江はP-51の性能を高く評価し、来るべき日本本土上空での空戦を見越し、陸軍航空審査部による全国各地の防空戦闘機部隊を対象とした模擬空戦のアグレッサー役を務めた。その際、P-51の高性能さと黒江自身の持つ戦闘機操縦技量により訓練相手を圧倒する事もあったため、新米パイロットが相手の際は自信喪失しないようにあえて手心を加えた場合もあった。模擬戦後に「あれでもP-51はまだ本気を出していない」と強く釘を刺す等、現実主義者でありまた理論派でもあった。
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