プリンス・オブ・ウェールズの沈没
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 05:13 UTC 版)
「マレー沖海戦」の記事における「プリンス・オブ・ウェールズの沈没」の解説
合計4-5本(日本軍主張7本、海底調査では4本)の魚雷が命中したプリンス・オブ・ウェールズは航行不能になり、左舷艦尾から沈み始めた。魚雷・爆弾の命中数に関して日英の資料で次のような食い違いがある。 日本側資料プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷7本、爆弾2発 レパルス:魚雷13本、爆弾1発 イギリス側資料プリンス・オブ・ウェールズ:魚雷6本、爆弾1発 レパルス:魚雷5本、爆弾1発 日本側は至近弾による水柱を魚雷の命中と誤認したという指摘もある。2007年に行われた海底調査では、プリンス・オブ・ウェールズの船体には4箇所の破孔が認められるのみであった。 駆逐艦エクスプレスがカートライト艦長の判断で乗員救助のためプリンス・オブ・ウェールズの右舷に横付けし乗組員の収容を始めた。リーチ艦長は負傷者のみエクスプレスへの移乗を許可し、残る乗組員には戦闘配置につきプリンス・オブ・ウェールズをシンガポールへ回航させると演説した。後日、日本軍の捕虜となったウェールズ生存者(ポンポン砲銃兵)の証言によれば、トーマス・フィリップス提督は幕僚の退艦要請に対し「ノー、サンキュー」と拒み、退艦する将兵に手を振った。一方、英戦艦の艦腹から海に飛び込んだ姿も数人に目撃されており、またヒラリー・ノーマン水雷中佐は救命胴衣をつけたフィリップの遺体が海面を漂うのを目撃している。「艦長が艦と運命を共にするのは無益だ」と公言していたリーチ(en) 艦長は付近の海面上で目撃されたが、生還しなかった。イギリス側の証言によれば、転覆時に海に投げ出されて行方不明になったという。午後2時30分、三番索敵機(帆足予備少尉機)が戦場に戻り、英艦隊の監視を行う。レパルスは既に沈没し、プリンス・オブ・ウェールズは艦中央と艦尾で火災が発生し、艦首は東を向いて惰性で動いていた。日本時間午後2時50分(現地時間13時20分)、プリンス・オブ・ウェールズは左へ転覆し艦尾から沈没した。帆足機は「レパルス型1420ごろ、キング・ジョージ型1450ごろ爆発沈没せり。駆逐艦、レパルスの救助作業につとめたるも、わずかに収容せるのみ。キング・ジョージ型は総員艦と運命をともにせり」と報告し、大本営発表もこれに準じている。実際のウェールズ戦死者は士官20名、下士官兵307名(全乗組員士官110名、下士官兵1502名)、であり、またバッファロー戦闘機隊指揮官は沈没寸前に火焔と黒煙が上がるも大爆発はなかったと証言している。 午後2時45分、オーストラリア第453飛行隊のブリュースターバッファロー戦闘機11機が戦場に到着、完全に転覆し、艦尾から沈んでいくプリンス・オブ・ウェールズを目撃した。帆足機はバッファロー8機を視認して積乱雲に退避。午後9時20分にサイゴン基地に着陸して13時間の索敵任務を終えた。また、テネドスは無事にシンガポールに帰還した。
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