ナチ党の東方生存圏
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ナチ党はその25カ条綱領で「我々は、我が民族を扶養し、過剰人口を移住させるための土地を要求する。」としているが、その求める土地がどこであるかは明言していなかった。ヒトラーは1925年の著書『我が闘争』の中で初めて東方に生存圏を獲得するという目的を記述した。 1942年5月20日にヒトラーがベルリン・スポーツ宮殿において将校候補者の前で行った非公開演説では、生存圏の論理が説かれている。ヒトラーは東方から押し寄せてくるアジア内陸の人間、その背後にいる国際ユダヤ人に対抗するためには、ドイツが一定の生存圏を得て、指導的大国にならねばならないと説いている。またドイツの土地で養える人間には限りがあり、輸入によってまかなうのであれば代価を支払わねばならないが、その代価となる工業製品を製造できる見込もない。これから逃れるためには産児制限や海外植民があるが、それは民族を衰退させる愚の骨頂であり、民族が発展・存続するためには人口の増加が不可欠である。領土拡張即ち生存圏拡張のための闘争は、食糧・生活基礎・原料・地下資源のための闘争である。生存圏拡張を欲しない民族は没落せざるを得ず、領土拡張政策という厳しい道を歩む必要があるというものである。 この見解は1937年11月の陸海軍首脳を集めた秘密会議においても披露され、8500万人を抱えるドイツ民族の食糧自給は現状では不可能、原料自給も不可能であると語ったヒトラーは、制海権を握るイギリスの海上封鎖に対抗するためには、ヨーロッパに陸続きの食糧供給地が不可欠であるとした(ホスバッハ覚書)。 この会議ではチェコの獲得によって食糧事情は一段落するとヒトラーは語っているが、ミュンヘン会談の成功によりチェコを獲得した後も食糧事情は好転しなかった。第二次世界大戦勃発後にポーランドやフランスを獲得した後もイギリスの海上封鎖によって食糧事情は悪化し、食糧・資源の供給地は緊急の課題となった。
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