ナチ党によるプロパガンダ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/31 00:59 UTC 版)
「民族共同体」の記事における「ナチ党によるプロパガンダ」の解説
ナチ党はプロパガンダでこの新しい「民族の共同体」を多数使用し、1933年に「Volkwerdung」のイベントを行い、人々が民族共同体となるよう描いた。この「民族」(Volk)は単なる「民衆、人民」(people)ではなく彼らを統合する神秘的な魂で、プロパガンダは個人をそのために死ぬ価値のある偉大なる全体の一部として描き続けた。ナチ党の一般的なモットー「集約化されたニーズは個人の欲望より前である」は、この時代に広範な感情となった。この観点の例にはヒトラーユーゲントとドイツ女子同盟への冬季援助活動の募金推進があり、合計額は個人別ではなく支部別に報告された。冬季救援活動キャンペーンは彼らに公共心を生成する儀式として作用した。 ヒトラーは、ドイツのみではブルジョワもプロレタリアもいないと宣言した。民族共同体は、党や社会階級の区別を乗り越えるとして描かれた。階級を跨って作成された公共心は、ナチズムの重要なアピールとなった。 ミュンヘン一揆の失敗後、ヒトラーは従来の反ユダヤ主義を抑制して、民族(Volk)の利益と、民族を救済する大胆な行動の必要性について考えを集中した。ヴェルサイユ体制は、彼らが救済したいドイツを裏切ったと考えた。その後のヒトラーの演説は、単なる反ユダヤ主義の排除ではなく、民族への無限の執着に集中した。政権獲得直後には、ドイツの救済の演説を行った。ドイツ国会議事堂放火事件が、反共産主義と反ユダヤ主義の暴力の正当化に使用される一方で、ヒトラー自身はドイツの新しい生命、誇り、統一について語った。長いナイフの夜が正当化された時も同様であった。ヨーゼフ・ゲッベルスはこの事件後のヒトラーを、「悲劇的な孤独」に襲われ、ジークフリートのようにドイツを守るために血を流す事を強いられている、と記した。 この民族(Volk)への固執は、ナチのプロパガンダに共通した。例えば突撃隊のリーダーは、粗野だからこそ単純で強く、民衆に正直な人間として描かれた。突撃隊は時として、民族的なマナーの表明と説明された。ホルスト・ヴェッセルの生涯の一部は、映画「Hans Westmar」(en)でフィクション化され、共産主義者との暴力的な衝突、彼の階級和解の説得、彼の死による学生や労働者の団結、などが描かれた。この改変は、突撃隊による過去の暴力的、反抗的、対立的な過去は、ナチスが公権力を握ったドイツでは、共同体的な組織に変革されなければならない、という突撃隊への宣伝でもあった。 このような団結はナチスのプロパガンダで正当化され、ナチスの誇るべき目標はドイツ民衆の団結である、とされた。また、団結した意思を持つ社会では、一党制の国家が必要と正当化され、ヒトラーは「民族の意思」は民主主義よりも直接的であると位置づけた。イギリスを金権政治と攻撃する際も、自分の民族に参加できるドイツ人は、イギリス人よりも自由であると強調された。 法学者のカール・シュミットは、彼のパンフレット「国家、民族と運動」で、「ユダヤ」や「非アーリア人」の語はほとんど使用しなかったが、民衆の同質性と「民族共同体」を賞賛することで、政治的な生活からのユダヤ排斥を評価した。強制的同一化には不十分であったが、ドイツ人を純潔にすべきというナチスの原理は続いた。 心理学の分野では、カール・グスタフ・ユングの「集合的無意識」が、公共的要素があるとして、ジークムント・フロイトの概念よりも好まれた。 「民族共同体」は第二次世界大戦中の映画では、社会の全階層が団結して戦争に当たる銃後の守りとしても描かれ、ナチス時代では「偉大な愛」(en:Die große Liebe)と「希望音楽会」(en:Wunschkonzert)の2作が特に有名となった。「希望音楽会」は、後に映画をベースにしたラジオショーとなり、放送された音楽によって非常に普及し、兵士からの多数のリクエストが寄せられた。
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