ナチ党での活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/29 23:42 UTC 版)
「エドムント・ハイネス」の記事における「ナチ党での活動」の解説
1919年にベルリンで活動するロスバッハ義勇軍(ドイツ語版)に参加しカップ一揆に参加した。ハイネスはミュンヘン支部の指導者になったが、1922年2月にロスバッハ義勇軍が解散させられた際に義勇軍本部の指令で国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、同時に突撃隊に参加した。ミュンヘン一揆の際には3つの突撃隊大隊の1つ突撃隊第3大隊の指揮官として参加し、一揆失敗後に逮捕され禁固15カ月の判決を受け、アドルフ・ヒトラーと共にランツベルク刑務所に収監され、1924年9月に釈放される。釈放後は、エルンスト・レームが創設した突撃隊の偽装組織フロントバン(ドイツ語版)に参加した。 1925年にナチ党が再結成すると再び突撃隊に入隊。1926年に突撃隊大佐に昇進するが、1927年5月31日に同性愛容疑でアドルフ・ヒトラーの逆鱗に触れて一時突撃隊を追われた。1929年にはドイツ共産党党員殺害の容疑で起訴され有罪判決を受けたが、犯行動機が「愛国的だった」ためにすぐに釈放された。釈放後、短期間ながら第10突撃隊連隊「ミュンヘン=ラント」の指導者を務めた後、1930年にアドルフ・ワーグナーの副官となり、同時にミュンヘン=ハイドハウゼンの地区指導者となった。また大ミュンヘン大管区の宣伝部長を5月より務めた。また6月から11月までの短期間オーバープファルツの大管区指導者代行と突撃隊指導者となった。 1930年ドイツ国会選挙では、選挙区8区(当時ドイツ領だったリーグニッツ)から選出されて国会議員となり、1931年5月1日に突撃隊副幕僚長、7月31日から突撃隊集団「シュレージエン」の指導者となった。1932年5月12日、国会のレストランで、レームの同性愛を記事にしたジャーナリストのヘルムート・クロッツ(ドイツ語版)暴行事件に関与した。そのため、ハイネスは暴行に関与した3人のナチ党議員とともに30日間の登院停止処分を受けた後、5月24日に禁固3か月の有罪判決を受ける。
※この「ナチ党での活動」の解説は、「エドムント・ハイネス」の解説の一部です。
「ナチ党での活動」を含む「エドムント・ハイネス」の記事については、「エドムント・ハイネス」の概要を参照ください。
- ナチ党での活動のページへのリンク