ナチ党による権力掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 13:00 UTC 版)
「国民社会主義ドイツ労働者党」の記事における「ナチ党による権力掌握」の解説
詳細は「ナチ党の権力掌握」、「ヒトラー内閣」、および「長いナイフの夜」を参照 11月の選挙の結果をうけてパーペン内閣は倒れた。しかしナチ党も絶対多数を確保出来ず、指名権を持つヒンデンブルク大統領がヒトラーを個人的に嫌っていたため、ヒトラー組閣は困難であった。その政治的空白を縫って、シュライヒャーが新首相となった。シュライヒャー首相は入閣を餌に組織局長シュトラッサーの切り崩しを図ったが失敗し、ヒンデンブルク大統領の信任も失った。 この間に、ヒトラーはヒンデンブルクの息子オスカーと大統領官房長オットー・マイスナーを味方に引き入れた。彼らの説得を受けてヒンデンブルクはついにヒトラーを首相に任命し、1933年1月30日にヒトラー内閣が発足した。発足当時、入閣したナチ党員はヒトラーを含めて3名であり、副首相パーペンを代表とする保守派はヒトラーを制御出来ると考えていた。しかしプロイセン州内相に就任したゲーリングが国土の過半数以上を占めるプロイセン州の警察権力を握り、突撃隊や親衛隊が警察権力に浸透していった。 組閣後まもなく議会は解散され、選挙運動が始まった。しかし2月に国会議事堂放火事件が起こり、これを共産党の陰謀と見なして緊急大統領令を布告、共産党幹部を逮捕した。当時の法律では国会議員の逮捕は禁じられていたが、緊急大統領令がこれを許した。 選挙の結果、ナチ党が勝利したことが明らかになると、「党がドイツ民族を指導する体制が承認された」として、党による独裁を強化した。プロイセン州国家代理官のゲーリングを始めとする各地方の党員は鉤十字の党旗を地方官公庁の建物に掲揚させた。さらにヒトラーは3月23日に全権委任法を国会承認させ、立法権を国会からヒトラー政権に委譲させた。この法律はどんな法律も議会の審議を経ないで政府が制定できることを意味していた。既存の政党は次々と解散し、7月には政党禁止法によりナチ党以外の政党は禁止された。また、これに前後してヴァイマル憲法に定められた基本的人権や労働者の権利のほとんどは停止された。11月には国会選挙が行われ、国会議員はナチス党員のみとなった。12月には国家と党の不可分な一体化が定められたが、1942年にこの条文は削除されている。 1934年6月30日、第二革命を主張する突撃隊参謀長レームなど党内外の政敵を一斉に粛清(長いナイフの夜)し、独裁権力は確実なものとなった。ヴァイマル共和国軍や資本家とも連携し、国内の反対派は息を潜めた。8月にはヒンデンブルク大統領死亡にともなって発効した国家元首法により、首相のヒトラーに大統領権限が委譲され、ヒトラーは国家元首となった。1938年11月9日夜から10日未明にかけてナチス党員・突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅・商店・シナゴーグなどを襲撃・放火している(水晶の夜)。
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