賠償金支払いの停止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:11 UTC 版)
「第一次世界大戦の賠償」の記事における「賠償金支払いの停止」の解説
詳細は「ローザンヌ会議」を参照 1929年10月24日、世界恐慌が発生し、1930年1月には第2回ハーグ会議でヤング案実行に関する協議が行われることになった。ドイツは賠償支払いの困難を訴えたが、フランスは応じなかった。さらに5月のクレディット・アンシュタルト銀行の破綻と9月の選挙によるナチ党の躍進が外資金の撤退を招いたこともあり、ドイツ全土が大規模な信用恐慌に見舞われた。 1931年6月、ハインリヒ・ブリューニング首相は賠償金支払いの停止を宣言した。賠償金支払い停止は連合国、特にフランス経済に大きな影響を与えるため、7月1日にアメリカのハーバート・フーヴァー大統領は賠償金支払いとヨーロッパの対アメリカ債務支払いを一年間猶予した(フーヴァーモラトリアム)。しかしドイツの経済状況は改善せず、賠償金支払いは再開されなかった。このため1932年6月16日からローザンヌ会議で再度協議が行われることになった。この会議でヤング案の停止と、3年間の支払い猶予、30億ライヒスマルクの支払いによって賠償を終了させるという合意が行われた。しかしナチ党と共産党の拒絶によってドイツ国内での批准は行われず、対連合国債権減額に反発するアメリカ議会でも批准されなかった。1933年にはナチ党が権力を掌握し、ライヒスバンク評議会などの連合国監督措置は撤廃された。 1933年7月にドイツ政府は外国への支払いに対するモラトリアムを宣言した。ライヒスバンクは債務の一部を返済することで債権者との合意を行ったが、オランダとスイスは応じず、経済制裁をかけると主張した。このため両国国民に対してのドーズ債・ヤング債の利子支払いは全額行われた。スウェーデン、フランス、ベルギー、イギリスも同様に経済制裁をほのめかしたため、これらの国民に対しては利子支払いが行われた。ただし、不干渉政策をとったアメリカの国民に対する利子支払いは行われなかった。
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