賠償金支払いの開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 03:50 UTC 版)
1921年1月からパリで賠償金総額を確定する会議が開催された。会議の結果、ドイツは総額2260億金マルクを42年間にわたって支払うことが求められた。ドイツは賠償総額の削減を求めたが、3月1日から開催されたロンドン会議においてその要求は拒否され、8日からはデュッセルドルフなどが一時占領された。5月5日、連合国は賠償金の総額を1320億金マルクとし、ドイツは年20億金マルクと輸出額の26%を支払うように求め、ドイツが拒否した場合はルール地方を占領するという通告(ロンドン最後通牒)を行った。賠償金削減に努力してきたドイツのフェーレンバッハ内閣は、この要求によって連立政権内部が紛糾し、総辞職した。それを受けて5月10日に成立したヴィルト内閣は少数与党であったが、ドイツ社会民主党、独立社会民主党、中央党、そしてドイツ民主党の大半の議員が要求受諾を受け入れ、220対172で可決された。ヴィルトは賠償金支払いの「履行政策」を掲げ、5月31日に10億マルクの支払いを開始した。 しかし1921年度分の賠償を支払うことはできたものの、翌年分の支払いは困難となった。12月14日にドイツは賠償委員会に対して翌1922年1月と2月の賠償支払い延期を要請した。委員会は延期を認めたものの、支払計画の提出と、一部の賠償支払いを要求した。この間にフランスでも政変が起こり、対独強硬派のレイモン・ポアンカレが首相となった。ヴィルト内閣は税制改革や強制公債発行などを主軸とする支払計画を作成したが、強制公債に対してはドイツ国内でも強い反発があった。しかしインフレーションの進行により、公債による賠償資金調達は失敗に終わった。ドイツはジェノア会議において賠償金問題を取り上げるよう要請したが、フランスの反対により取り上げられなかった。1922年後半にはインフレがさらに進行し、マルクの対ドルレートは、7月に1919年時点の117.5倍、12月には1807.8倍に達していた。ドイツはこの状況では支払は不可能であるとし、残りの1922年分と1923年、1924年分の支払免除を求めた。8月の連合国会議は支払い猶予については決定を延期するとしながらも、政府公債による支払を認めるなど、1922年中については事実上支払を免除した。11月14日、ヴィルト内閣は総辞職したが、それとともに「賠償金・現物払いの3-4年免除」を求める覚書を提出し、ヴィルヘルム・クーノ内閣もその見解を継承し、改めて連合国に支払の2年猶予を求めた。しかし12月19日からのロンドン首脳会議においてポアンカレは、ドイツに対して「生産的担保」を求め、ドイツ案は不十分であるとした。フランスも対英米の債務に苦しんでおり、賠償金支払いは不可欠であった。
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