賠償金額決定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:11 UTC 版)
「第一次世界大戦の賠償」の記事における「賠償金額決定」の解説
賠償委員会は244条第二議定書によってパリに設置され、アメリカ・イギリス・フランス・イタリア・日本・ベルギー・ユーゴスラビア(セルブ・クロアート・スロヴェーン王国)がそれぞれ1名の委員と1名の副委員を出すこととなっていた。ただし委員会の評決に加われるのは五ヶ国の委員のみであり、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの委員が優先権を持っていた。日本は海上問題と日本関係、ベルギーは日本が関与する問題以外に優先権を持つこととされた。賠償委員会は賠償不払い時に領土差し押さえが出来るなど強大な権限を予定されていたが、それはアメリカの参加が前提であった。しかしアメリカがヴェルサイユ条約を批准しなかったため参加しなかった。 このため1920年4月から1921年4月にかけて12回の会議が開かれた。フランスは自国の損害を1320億金マルクに達すると算出しており、フランス一国で1110億金マルクを請求し、ドイツが120億金マルクを42年間支払い続ける案を提出している。しかしイギリス側はドイツにその能力がないと反論している。対独融和的なイギリスと対独強硬であるフランスの意見は対立し、協議は難航した1920年6月21日のブーローニュ会議では2690億金マルクという総額が暫定的に定められ、7月のスパ会議では賠償金配分がフランス52%、イギリス22%、イタリア10%、ベルギー8%、日本0.75%、ポルトガル0.75%であるとなり、残りの6.5%はユーゴスラビア、ルーマニア、ギリシャを含めた協定非署名国のため留保すると定められた。11月にはドイツが賠償支払いを履行しない場合にはルール地方またはドイツ全土の占領が定められた。 1921年2月から3月のロンドン会議ではドイツ側が総額を500億金マルクとする対案を提出したが、連合国側は却下した上にデュースブルクなどドイツの三都市を占領するという強硬手段に出た。この占領は1925年8月25日まで行われている。4月から5月にかけて開かれた第二回ロンドン会議で、ドイツは総額2000億マルクという新たな対案を提示したが、連合国側は強硬であった。5月5日、最終的な案が定まり、総額は1320億金マルク(約66億ドル、純金47,256トン相当)という1913年のドイツ国民総所得の2.5倍という莫大なものとなり、ドイツはこの金額向こう30年間にわたって分割払い、しかも外貨で支払うことになった。最初の5年間には年20億マルク、さらに輸出額の26%を支払うことが定められ、以降は徐々に金額が増加し、最後の10年間には60億マルクに達するというものであった。さらに委員会は1921年中に10億マルクの支払いを求めた。ベルリンには賠償支払い監視のための補償委員会が設置され、ドイツ国民の反発は高まった。ドイツは国債発行を行って1921年8月に10億金マルクを支払ったものの、フランスはこの資金がザール炭鉱の利益から出ているとして受け取らなかった。10月にはドイツがフランスに鉄鋼などの現物供給で賠償を支払うヴィースバーデン協定が結ばれたが、競合相手となるフランス産業界や他の連合国の批判を受けたために中止された。1922年4月にはソビエト連邦とドイツが極秘交渉の末、ヴェルサイユ条約116条を事実上破棄し、賠償金を含む戦債を相互放棄するラパッロ条約を締結した。
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