ナチ党政権取得後
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「ユリウス・シュトライヒャー」の記事における「ナチ党政権取得後」の解説
1933年1月30日には選挙で大勝したナチ党政権が誕生し、ヒトラー内閣が発足したが、シュトライヒャーには閣僚職は与えられず、党のフランケン大管区指導者職にとどまった。 アメリカで起こったドイツ製品不買運動を受けて、ヒトラーはシュトライヒャーを「ユダヤ人の残虐行為・ボイコット扇動から防衛するための委員会」(以下ボイコット委員会)の委員長に任じた。1933年4月1日よりシュトライヒャーの総指揮のもとに全ドイツで突撃隊員がユダヤ人商店の前に立って客が入らないようにする不買運動が展開された。依然として経済危機の状況にあったドイツ経済の更なる悪化を防止するためボイコット運動そのものは一日だけに限定されたが、ボイコット委員会はその後も存続し、公務員やナチ党員にはボイコットが義務付けられ続けた。 1934年には突撃隊の名誉隊員となり、突撃隊中将の階級を与えられた。1937年1月30日には突撃隊大将になっている。1938年には子供向けの反ユダヤ本『毒キノコ(英語版)』を発刊している。1930年代の終わり頃にはユダヤ人をフランス植民地マダガスカル島に移住させる政策に取り組んでいた。 シュトライヒャーは、ヘルマン・ゲーリング夫人のエミー・ゲーリングがユダヤ人と交友関係がある事を知るや彼女を攻撃し、彼女がユダヤ人の店で商品を買った写真を『シュテュルマー』に掲載した。そればかりか1940年2月にはゲーリングは性的不能者であり、彼の娘エッダは人工授精で生まれたなどと『シュテュルマー』に書きたてた。ゲーリングは、以前から『シュテュルマー』の扇情的な反ユダヤ主義の論調に反感を抱いていたが、ここに至って大管区指導者6名からなる査問委員会を設置してシュトライヒャーを捜査させた。彼の関わっていた不正行為が次々と発覚し、査問委員会は「シュトライヒャーは人間の指導者として不適格」との結論を下した。ついにヒトラーにも見捨てられ、フランケン大管区指導者を罷免されたのであった。 『シュテュルマー』はその後も民間新聞として続き、1945年2月1日まで発行された。しかし党の後援を失った『シュテュルマー』の発行部数は大きく落ちた。大管区職辞任以降にはニュルンベルクに近いプライカーショフの酪農場で暮らし、その経営にあたっていた。彼は20歳以上年下のアデーレ・タッペ(Adele Tappe)というブロンドの女性と再婚した。 シュトライヒャーの妻アデーレによると、シュトライヒャーは1944年5月と7月にヒトラーからゲッベルスとライを介してもう一度「党の古参闘士」として戻ってほしいという要請を受けたが、断ったという。
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