国家保安本部長官
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「エルンスト・カルテンブルンナー」の記事における「国家保安本部長官」の解説
1942年6月4日に国家保安本部(RSHA)長官ラインハルト・ハイドリヒがチェコ人工作員の襲撃で負った傷が原因で死去した。その後、ハインリヒ・ヒムラーが国家保安本部長官を兼務していたが(国家保安本部長官代理にブルーノ・シュトレッケンバッハが任じられていた)、1942年12月10日にヒムラーはヒトラーの同意を得て、カルテンブルンナーを後任の国家保安本部長官に内定した。1943年1月30日にカルテンブルンナーは国家保安本部長官に任命された。1月31日にヒトラーがカルテンブルンナーの国家保安本部長官任命を発表した。 これによって彼はゲシュタポ、刑事警察、親衛隊情報部(SD)、および東部戦線後方で敗戦までに100万人を殺害したアインザッツグルッペンなどの責任者となった。人種再定住計画や「ユダヤ人問題の最終的解決」の執行者となった。カルテンブルンナーの督励により、ヨーロッパ中でユダヤ人狩りが組織的に実行され、数百万人が抹殺された。しかし基本的にはカルテンブルンナーはヒムラーとハイドリヒがすでに敷いた路線を継承したにすぎなかった。カルテンブルンナーがこれまでの路線に変更を施したところといえば、1943年春と夏にこれまで絶滅政策の対象外となっていたテレージエンシュタット・ゲットーの「特権的ドイツ系ユダヤ人」たちも絶滅過程に組み入れることを決定したことがある。 1944年2月にはヴィルヘルム・カナリス提督の失脚に伴い、その指揮下だった国防軍諜報部「アプヴェーア」は、国家保安本部第VI局(局長ヴァルター・シェレンベルク)の下部組織にされた。 1944年3月には「弾丸布告(Kugel-Erlaß)」を発令した。これによりアメリカ人とイギリス人を除く逃亡した戦争捕虜は国家保安本部の保安警察とSDに引き渡され、マウトハウゼン強制収容所で銃殺されることとなった。 1944年3月にドイツ軍がハンガリーを占領。カルテンブルンナーは1944年3月22日にハンガリーに赴き、新しい首相に立てられた親独派ストーヤイ・デメと会見した。ハンガリー政府が国家保安本部が行う「ユダヤ人問題の迅速な解決」に協力し、ユダヤ人移送を妨害しない約束を取り付けた。その後も数日間ブダペストに留まり、ハンガリー当局とユダヤ人移送について協議し、実施の詳細についてはアドルフ・アイヒマンにゆだねた。アイヒマンの指揮のもとに1944年5月半ばから6月30日までのわずか一ヶ月半の間に38万1600人のユダヤ人がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られ、うち24万人がガス室へ送られて殺された。 1944年6月にはドイツを空爆した連合国パイロットの取り扱いについて国防軍最高司令部作戦本部長代理ヴァルター・ヴァルリモントと協議した。連合国パイロットのうち、直接に市民やその財産を狙う機銃掃射をしたと認められるパイロットは、SDに引き渡されて「特別待遇」に処す事を決定した。
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