ナチ党野党時代
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「バルドゥール・フォン・シーラッハ」の記事における「ナチ党野党時代」の解説
レンテルンを失脚させたのち、1932年6月に代わってヒトラーユーゲント全国指導者に任命された。1932年7月31日の国会選挙で国会議員に当選した。 1932年10月1日にポツダムで大規模な「全国青少年集会」(Reichsjugendtag)を開催した。ヒトラーユーゲントは本人か父親が失業者であることが多かったので、旅費を捻出できず、党集会への集まりが悪いことで知られていたが、この集会の参加者数は5万人から7万人といわれる(1929年党大会時に集合したユーゲント数はわずかに2000人だった)。ヒトラーはベルリンのゲッベルス邸で待機し、集まりが良かった場合にのみ出席する予定となっていた(この頃のヒトラーは、ヒンデンブルク大統領から首相就任要請を待つ難しい時期だったので、あまりみすぼらしい集会に参加して政敵に笑い者にされるのを嫌がっていた)。集まりがいいことを知ったヒトラーはポツダムへ駆けつけ、夜にこの集会に参加した。シーラッハがヒトラーに「総統、ここにいるのは皆、貴方の青少年たちです。愛と信念に支えられた政治集会を貴方に捧げるために集まったのです。これほどの集会を若者から贈られた人物は、他に誰がいるでしょう」と述べると、会場の若者たちから歓声が上がり、ヒトラーの目から涙がこぼれたという。翌10月2日には若者たちはヒトラーの前で7時間にも及ぶ大行進を行った。このポツダムでの集会の成功でヒトラーはシーラッハに絶大な信任を寄せるようになった。彼はシーラッハに「君はとてつもなく大きな仕事を果たしてくれた。これほどの規模の青少年の集会がベルリンの目と鼻の先であったとなれば、政府も黙殺できないだろう」と述べた。
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