ナチス突撃隊とは? わかりやすく解説

突撃隊

(ナチス突撃隊 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/24 07:29 UTC 版)

突撃隊(とつげきたい、: Sturmabteilung, 略号:SA)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の準軍事組織である。制服の色から「褐色シャツ隊(Braunhemden)」とも呼ばれた[2]


注釈

  1. ^ 1920年と1921年にヘルマン・ミュラー内閣やヨーゼフ・ヴィルト内閣はヴェルサイユ条約の遵守のために義勇軍や郷土軍に解散命令を出したが、完全に消失せず、特にはじめバイエルン州が解散命令を無視した。しかし内外の圧力でバイエルン州も1921年6月28日には解散に同意した。レームはなおも義勇軍解散に反対し、なんとか存続させる方法を模索していた。そのために彼はニュルンベルクに「帝国旗団ドイツ語版」、ニーダーバイエルンに「ニーダーバイエルン闘争団」など偽装組織を次々と創設していた。体育およびスポーツ部も偽装組織の一つにできると目を付けられた組織であった[12]
  2. ^ 襲撃人数は『我が闘争』の記述。当時の『フェルキッシャー・ベオバハター』の報道では300人、ヒトラーが当時行った報告では450人となっている。
  3. ^ SPD系日刊紙『ミュンヒナー・ポスト』11月5日号は、逆に集会を「粉砕した」としている[17]
  4. ^ しかしこのタンネンベルク同盟は隊員がどんどんナチ党や突撃隊に流れていき、隊員数は減少しつづけていった。1933年にナチ党が政権を獲得するとともに正式に解散させられた[57]
  5. ^ SA指令(SA-Befehl, SABE)は1926年11月1日、SA原則命令(Grunds Uzlicher SA-Befehl, GRUSA)は1927年5月30日より発せられた
  6. ^ 配色はSA最高指導部に準ずる
  7. ^ 以下、配色はSA管区集団指導部に準ずる
  8. ^ 略号は隊員用のダガーナイフやスポーツ着のワッペン等に刻印されていた。
  9. ^ 中隊指導者以上はボタンと同様、金か銀の配色
  10. ^ 識別色規定文にはライトレッド(hochrot)と表記されているが実際の色は朱色(Zinnoberrot)に近い。
  11. ^ 名称は、「バイエルン王国近衛歩兵連隊 (Königlich Bayerisches Infanterie-Leib-Regiment)」を参考に名付けられ、「L連隊(Standarte “L”)」と略称された。親衛隊のLSSAHのようなヒトラー専属の護衛部隊ではなく、専ら儀礼的な名誉部隊として発足した。
  12. ^ 1931年11月3日にSAホッホラント管区集団へ再編

出典

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  157. ^ SABE 3 Staf "SA und Öffentlichkeit (Propaganda)" v.3.11.1926, gez.: v.Pfeffer.
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ナチス突撃隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:59 UTC 版)

ヴィクトール・ルッツェ」の記事における「ナチス突撃隊」の解説

1922年国家社会主義ドイツ労働者党ナチス党)へ入党し突撃隊員となる。1923年フランス軍占領されルール地方での反仏闘争参加した1925年からルール大管区の副大管区指導者突撃隊指導者務めた1930年ドイツ国会選挙では南ハノーファー・ブラウンシュヴァイク選挙区から選出されナチ党国会議員となった1930年北部突撃隊指導者1931年北部突撃隊集団指導者就任1932年に第2突撃隊集団指導者1933年に第6突撃隊集団指導者となり、これらの地位に基づきニーダーザクセンヴェストファーレン、ニーダーライン、北海などの突撃隊管轄した。 1933年1月突撃隊大将となる。ナチ党の権力掌握後の1933年3月プロイセン州ハノーファー県(ドイツ語版)の知事および警察本部長就任し1941年まで務めた

※この「ナチス突撃隊」の解説は、「ヴィクトール・ルッツェ」の解説の一部です。
「ナチス突撃隊」を含む「ヴィクトール・ルッツェ」の記事については、「ヴィクトール・ルッツェ」の概要を参照ください。


ナチス突撃隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 14:16 UTC 版)

クルト・ヴァルトハイム」の記事における「ナチス突撃隊」の解説

ウィーン近郊のザンクト・アンドレー=ヴェルデルンに誕生した第二次世界大戦前ドイツによるオーストリア併合アンシュルス)から3週間後に国家社会主義学生同盟入り、後にナチス突撃隊の将校務める。

※この「ナチス突撃隊」の解説は、「クルト・ヴァルトハイム」の解説の一部です。
「ナチス突撃隊」を含む「クルト・ヴァルトハイム」の記事については、「クルト・ヴァルトハイム」の概要を参照ください。

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