ナチ時代の国会議事堂(1933年–1942年)
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「クロルオーパー」の記事における「ナチ時代の国会議事堂(1933年–1942年)」の解説
歌劇場は、ほぼ2年間使用されなかった。1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命された。1933年2月19日に「自由な言葉(ドイツ語版)」と銘打った集会が開催された。理性的な民主主義、反ナチスの精神的での著名人が900人以上集い、ナチスに対して抗議を行った。1933年2月27日の夜、国会議事堂が炎上した。 ナチスにとっては政敵、まずは特に共産党を仮借なく弾圧するきっかけとなった。1933年3月5日の国会選挙でナチ党と連立与党の国家人民党は、絶対多数を獲得した。ヴァイマル憲法の規定に従い、選挙日から30日以内に国会を召集する必要があったが、火災で大きな被害を受けた議事堂の本会議場は使用できる状態になかったため、クロルオーパーが議場に選ばれた。なお議事堂はナチ時代には、象徴的に再建されなかった。1933年3月7日、必要な改装工事が始まった。観客席の上方の天井部分は下げられ、布が張られた。そこには晴れやかな天井画があり、この場にそぐわないもとのして消し去るためであった。客席には合計647席が設置されたが、実際にこの時点で必要だった議席に比べれば過大なものであっただろう。なぜなら社会民主党の11議員がすでに「保護拘禁(ドイツ語版)」下におかれ、また共産党の81議席は無効を宣言されていたためである。内務大臣ヴィルヘルム・フリックはこう語っている。 新国会の召集時には、共産党員はより緊急かつ有用な労働のために、議事への参加が妨げられるであろう。諸氏は必ずや再び有用な労働に慣れることだろう。そのために我々は強制収容所でその機会を与えるであろう。 —クロルオーパーのかつての所在地に掲示された案内板 この後もナチスはクロルオーパーを国会の議場として使用し、一党独裁への途上で一連の議決を行い、また戦争に形式的に承認を与えた。1933年3月23日に社会民主党は反対票を投じたが、ブルジョワ諸政党の支持によって「民族および国家の危機を除去するための法律」、いわゆる「全権委任法」が可決され、こうしてドイツ国の民主主義の時代は終わりを迎えた。その後、政府は議会の賛成や大統領の署名なしで、法律を公布することができた。社会民主党の抗議にヒトラーは嘲笑をもって答えた。「迫害と言うが、大げさというものだ。今の時点で迫害などと言っても、今日の時代に限ったことではない」。1933年12月12日の国会で議場にいたのは、ナチ党員のみとなっていた。 後に開かれた国会はわずかで、いずれもヒトラーの舞台となった。「レーム一揆」後に党内の抵抗勢力殺害を正当化し、旧ドイツ植民地の要求を主張し、オーストリアのドイツへの「合邦」を祝い、西側民主主義諸国を戦争で脅迫したのである。また、成立当時には第5条の規定で1937年までの時限立法とされていた全権委任法は、更新を重ねていった。 ドイツで初のテレビ中継は、1934年4月18日にベルリンのクロルオーパーで公開された(パウル・ニプコウ・テレビ局(ドイツ語版))。 1939年9月1日にヒトラーはポーランド攻撃を告げ、こうして第二次世界大戦が初まった。1941年12月11日のドイツおよびイタリアの対米宣戦(ドイツ語版)をヒトラーはクロルオーパーでの国会で布告し、アメリカ大統領フランクリン・ルーズヴェルトを精神病である、と決めつけた。 1942年4月26日に最後の国会が開催され、ヒトラーはモスクワを前にした敗北を勝利にすり替え、自らを「全ドイツ人の最高裁判権者」と宣言させた。
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