亡命から晩年まで
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「エルンスト・ハンフシュテングル」の記事における「亡命から晩年まで」の解説
ナチ党の権力掌握後、数年するとハンフシュテングルは温和な政治見解や他のナチ党幹部への批判・直言癖のために党内での立場を危うくしていった。ヒトラーも徐々にハンフシュテングルに不信の目を向けるようになった。1936年には妻ヘレナがハンフシュテングルと離婚して息子を連れてアメリカに帰国した。 ハンフシュテングル自身も翌1937年3月に国外亡命することになった。ハンフシュテングルはヒトラーの側近の英国女性ファシズム運動家ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォードとシュタルンベルク湖でヨットに乗っていた際、ヒトラーやゲッベルスの批判を彼女に聞かせたが、彼女は「そういう考えなら貴方に海外報道担当の資格はない」とハンフシュテングルを批判し、ヒトラーにそのことを告げ口した。ヒトラーはハンフシュテングルを少し懲らしめようと冗談でスペイン内戦行きの命令を出したが、これを真に受けたハンフシュテングルは粛清されると思いイギリスへ亡命したのだった。その後ユニティやゲーリングがハンフシュテングルに連絡を取り、冗談なのでドイツに帰国するよう説得にあたったが、彼は戻らなかった。 その後イギリスからアメリカへ移住。以降、第二次世界大戦が終わるまでアメリカで生活し、大戦中にはヒトラーをよく知る者としてアメリカ合衆国連邦政府に招集されて、ホワイトハウスに対独アドバイザーとして勤務した。戦後にドイツへ帰国。1957年に回顧録『ヒトラー:失われた歳月』(Hitler:The Missing years)を著した。1975年にミュンヘンで死去。
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亡命から晩年まで
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翌年の紀元前497年に官を辞し、弟子とともに諸国巡遊の旅に出た。国政に失望したとも、三桓氏の反撃ともいわれる。以後、孔子は13年の間、諸国を転々とする。まず孔子が赴いたのは衛であり、ここに5年ほど滞在した。ついで紀元前493年、いったん晋に向かったが衛に戻り、曹へ向かおうとして宋で妨害されたために鄭へと逃れ、ついで陳に赴き、いったん蔡に向かった時期を含めるとここに4年ほど滞在した。紀元前489年、孔子は楚に向かったが、同年には衛へと戻り、紀元前484年に魯に帰国するまでは衛に滞在し続けた。 (孔子の外遊中の紀元前494年には魯で哀公が第27代君主に就任する。前487年に魯は隣国の呉に攻められるも奮戦し、和解した。その後、斉に攻められ敗北した。前485年には呉と共に斉へ攻め込み大勝した。翌年の前484年にはまた斉に攻められた。) 紀元前484年、孔子は69歳の時に13年の亡命生活を経て魯に帰国し、死去するまで詩書など古典研究の整理を行なう。この年、子の孔鯉が50歳で死んでいる。 紀元前483年、孔子は斉の簡公を討伐するよう哀公に進軍を勧めるが、実現しなかった。その3年後の前481年、斉の簡公が宰相の田恒(陳恒)に弑殺されたのを受けて、孔子が再び斉への進軍を3度も勧めるが、哀公は聞き入れなかった。『論語』の憲問編にて「大夫の末席に連なる以上、(聞き入れて貰えないのは分かっていても)言わざるを得なかった」と嘆いたと記すのはこの時のことである。 孔子の作と伝えられる歴史書『春秋』は哀公14年(紀元前481年)に魯の西の大野沢(だいやたく)で狩りが行われた際、叔孫氏に仕える御者が、麒麟を捉えたという記事(獲麟)で終了する。このことから後の儒学者は、孔子は、それが太平の世に現れるという聖獣「麒麟」であるということに気付いて衝撃を受けた。太平とは縁遠い時代に本来出てきてはならない麒麟が現れた上、捕まえた人々がその神聖なはずの姿を不気味だとして恐れをなすという異常事態に、孔子は自分が今までやってきたことは何だったのかというやり切れなさから、自分が整理を続けてきた魯の歴史記録の最後にこの記事を書いて打ち切ったとも解釈している。ここから「獲麟」は物事の終わりや絶筆のことを指すようになった。この年、一番弟子だった顔回が死去している。次いで紀元前480年には衛に仕えていた子路も殺された。 紀元前479年に孔子は74歳で没し、曲阜の城北の泗水のほとりに葬られた。前漢の史家司馬遷は、その功績を王に値すると評価し、「孔子世家」とその弟子たちの伝記「仲尼弟子列伝」を著した。儒教では「素王」(そおう、無位の王の意)と呼ぶことも多い。
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