亡命から死去まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/20 13:29 UTC 版)
「ミンツェンティ・ヨージェフ」の記事における「亡命から死去まで」の解説
結局、教皇パウロ6世は妥協案を出してミンツェンティを「歴史の犠牲者」であると宣言し、彼の政敵に対して科された破門を無効とした。1971年9月28日、ハンガリー政府はミンツェンティに出国する許可を与え、10月23日より彼はオーストリアのウィーンに亡命した。彼は、バチカンの援助によって無検閲での回想録出版と引き換えにハンガリーの首都大司教の職を辞すというローマの助言を受け入れず、通例司教は75歳近くで引退するところを、ミンツェンティは絶えず彼が辞任するという噂を否定し、大司教の座にとどまり続けた。 1973年12月、彼が81歳の時に教皇はミンツェンティの称号を削除し、エステルゴム大司教(ハンガリーの首都大司教)の座は空位となったと公式に宣言したが、教皇はミンツェンティが存命の間は後任者の指名を拒んだ。1975年5月6日、ミンツェンティは亡命先のウィーンで亡くなった。翌1976年初めに教皇はレーカイ・ラースロー(Lékai László)司教をハンガリーの首都大司教に任命し、共産党政府との長期の争いを終わらせた。レーカイ司教はカーダール・ヤーノシュ政権に対して極めて友好的であった。 1991年、彼の亡骸は新たに民主的に選ばれた政府によりエステルゴムに戻され、エステルゴム大聖堂に埋葬された。
※この「亡命から死去まで」の解説は、「ミンツェンティ・ヨージェフ」の解説の一部です。
「亡命から死去まで」を含む「ミンツェンティ・ヨージェフ」の記事については、「ミンツェンティ・ヨージェフ」の概要を参照ください。
- 亡命から死去までのページへのリンク