亡命から暗殺までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/02 18:33 UTC 版)
「サラーフッディーン・アル=ビータール」の記事における「亡命から暗殺までの経緯」の解説
1966年2月、サラーフ・ジャディードら若手バアス党員の急進的な派閥がクーデター(1966年シリアクーデター)を起こした。他の派閥は退避し、ビータールら旧来の指導者は拘束されて政府のゲストハウスに抑留された。8月に粛清が開始されると、ビータールは国外脱出し、レバノン・ベイルートに逃れた。その後はヨーロッパで亡命生活を送った。一方、アフラクはシリアのバアス党と決別したイラクのバアス党政権のもとに滞在した。1969年には他の旧指導者と共に欠席裁判で死刑判決を受けた。 1970年にシリア大統領に就任したハーフィズ・アル=アサドよって、1978年に赦免されるが、短期間ダマスカスに滞在した後、亡命先のパリでシリア政府を批判するキャンペーンを開始した。かつてアフラクと発刊した冊子と同名の雑誌「アラブ復興」を発刊し、シリア政府批判を展開した。イラク・バグダードに逃れたシリア反体制派と連絡を取り合っているという噂も出された。 1980年7月21日、ビータールはパリで射殺された。実行犯は不明のままだが、当時のアサド大統領が暗殺を命じたと報告されている。ビータールはパリの地元警察に対し、手紙や電話で殺害予告を繰り返し受けていると報告していた。暗殺の日の朝、ジャーナリストから面会の申し込みの電話を受け、自身の事務所で迎えることにした。事務所の入居する建物のエレベーターを降りて、自身の事務所に入ろうとしたところを背後から2発の銃弾を受けて死亡した。ビータールはイエメンの外交パスポートを所持していたため、シリアの元首相と判明するまではイエメン人外交官の殺人事件としてメディアに報じられた。 ビータールは後にイラク・バグダードに埋葬された。
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