亡命から晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 06:45 UTC 版)
「ジュゼッペ・ポエリオ」の記事における「亡命から晩年」の解説
亡命後、1824年にはフィレンツェに滞在。そこではピエトロ・コレッタやガブリエレ・ペペ(イタリア語版)、カルロ・トロヤ(イタリア語版)やマッテオ・インブリアーニとその息子パオロ・エミリオ・インブリアーニ(イタリア語版)などナポリ革命の同胞たちに再会し、またリベラルな思想を持つジーノ・カッポーニ(イタリア語版)、ピエトロ・ジョルダーニ(イタリア語版)、ニコロ・トマセオ(イタリア語版)などと交流を持った。しかし1830年にはトスカーナ大公国を離れた。その後はフランチェスコ・パオロ・ボゼッリ(イタリア語版)とともに科学と文学の雑誌『ビブリオテーク・フランセーズ』を出版し、テレンツィオ・マミアーニ(イタリア語版)やクリスティーナ・トリヴルツィオ・ディ・ベルジョホソ(イタリア語版)ら愛国者と交流を持つなど、革命への情熱を再燃させた。その一方で1831年にはフィリッポ・ブオナローティ主導の無謀なピエモンテでの蜂起に反対するなど、穏健かつ現実的な革命路線を志向した。 亡命期間中は息子アレッサンドロ・ポエリオ(イタリア語版)とともにロンドンやパリ、ブリュッセルなどを転々としていたが1833年にはフェルディナンド2世から帰国の許可を出され、ナポリに移り住む。ナポリ帰還後は革命家としてではなく法学者として立憲を研究という形で追求したが、1843年8月15日に死去した。 なお、二人の息子アレッサンドロ・ポエリオ(イタリア語版)やカルロ・ポエリオ(イタリア語版)、妻のカロリーナ・ポエリオもまたリソルジメントに貢献した志士として知られ、娘のカルロッタ・ポエリオはパオロ・エミリオ・インブリアーニ(イタリア語版)と結婚した。
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