亡き後の因幡山名氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/20 21:57 UTC 版)
久通(誠通)死後の因幡守護は、天文21年(1552年)に尼子晴久が正式に室町幕府より任じられた。これに対抗するように、山名祐豊の弟・豊定が但馬山名氏を後ろ盾として因幡へ勢力を扶植し、因幡守護的な地位に治まったものの、その後伯耆国より来襲する晴久は久通(誠通)の遺児である源七郎(豊通)を支援して度々争っており、山名氏と尼子氏の対立は永禄年間まで続く。 その豊通(改め豊成)は鹿野城にあって因幡の要所を押さえながらも、晴久の死去により尼子氏の支援は無くなり、布勢屋形に反旗を翻した武田高信によって永禄6年(1563年)に毒殺され、次男・弥次郎(豊次)も高草郡立見峠で武田勢に討たれ因幡山名氏は衰退した。子孫は尼子氏に代わり因幡の支配者となった毛利氏に仕え、末裔は長州藩士となった。
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