亡命し、キューバに戻る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 04:17 UTC 版)
「ヴィフレド・ラム」の記事における「亡命し、キューバに戻る」の解説
1940年6月のフランスの敗北の後、ラムはパリを離れマルセイユに行く。10月、そこには知識人やナチズムに敵意を持つ芸術家、その中にはブルトン周辺のシュールレアリストもいた。1941年2月、ヴァリアン・フライとダニエル・ベネデット率いる緊急救助委員会によってフランスを離れることができた。1941年4月から5月までマルティニークに初めて寄港している。ブルトンのおかげで、フォール=ド=フランスで雑誌『熱帯』を見つけ、その創始者であるスザンヌ・セゼールとエメ・セゼールの夫妻と出会った。このキューバ人画家と若いマルティニークの詩人との間には大きな友情がはぐくまれ始めた。ラムは、セゼールやレオポール・セダール・サンゴール、レオン・ゴントロン・ダマなどが不正義や植民地の専制主義に対して起こしていた戦いに親近感を感じていた。 ラムは1941年8月にキューバに着く。彼は、バチスタ体制下の黒人たちの惨めな状態によって混乱した自身の国に馴染めずにいたー≪戻ってみたものは、地獄のようであった≫。≪若いころのあらゆる植民地の悲劇が私に蘇ってきた≫。これがきっかけとなり、カンバスは告発と反抗の武器となった。子供時代の魔術的世界の中から取り出し、専門家やその筋の方(民俗学者のリディア・カブレラといった)から教わったサンテリア(santeria)のセレモニーやアバクアス(abakuas)の儀式から着想を得て、≪そして、私はアフリカに向けた絵を描き始めた≫。しかしラムは無神論者でいた。抑圧され隷属された人民の神話を蘇らせることで自身の国家の悲劇を描いた。1944年にニューヨークで展示した作品ジャングルは物議をかもしたが、1945年にはMoMAに購入された。ラムは以後、完全に自由の中で絵を描いた。
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