亡命と建国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 21:16 UTC 版)
朱蒙は友と共に扶余を出て東南へ逃走した。淹水(鴨緑江の東北)まで来たが橋がなく、追手を恐れた朱蒙は川に向かって「私は太陽の子で河伯の外孫である、今日逃走してきたが、追手がいよいよ迫っている、どうすれば渡れるか?」と言うと、魚や鼈が浮かんで橋を作り、朱蒙らは渡ることができた。朱蒙らが渡り終わると魚達の橋は解かれ、追手は河を渡れなかった。 更に逃げて卒本川へ至ると土地が肥沃で要害堅固なので、紇升骨城(現在の桓仁満族自治県五女山城(中国語版))を築き都とした。漢の建昭2年(甲申の年、西暦紀元前37年)に国を建て「高句麗」と号した。即位直後から隣接する濊貊(『三国史記』中の「靺鞨」は濊貊を指す)の部落に対して略奪や破壊を繰り返すと、濊貊は恐れて服属した。
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